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東北旅記3,11〜日常を続けたあの日から

ご無沙汰になりました。まみやです。
これは、ぼくが就職を間近に控えた大学4年の最後の春休みに東北を巡った旅行記なるもの。
世間はコロナ一色で、ぼくは多くのモヤモヤを抱える毎日。
そんな憂鬱な日々から逃げ出すために東北の各地を訪れ
今、ここで”見たもの” ”感じたこと” ”考えたこと” ”受け取ったこと”
をみらいの為に書き記しておくものです。
3,11@仙台~日常を続けたあの日から
3,12@女川・石巻~ぼくがここへ来た理由

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仙台のホテルにて

3月11日。
ぼくは、また東北に来ている。
この地で9年前を思い出し、それからの時間について想いを巡らせている。
中学1年生の春休みだった。
14時46分。
友人宅でテレビゲームをしていたことをはっきりと覚えている。
何も変わらない日常だった、ぼくらの中では。
その瞬間、少し揺れただろうか。その頃は皆、ガラケーで緊急地震速報のアラーム音は鳴らなかった。

その瞬間もぼくらはゲームを続け、日常を続けた。

数分後、友人の携帯に着信があった。祖父母から「大丈夫?」と。
まだ何も知らなかった。テレビ画面を切り替えると、どのチャンネルも緊急ニュースをやっていて、ただごとでないことは瞬時に分かった。
地震の揺れを表す現地映像と「避難や安全を確保してください」と緊迫感をもったアナウンサーの声。ぼくらは画面を見入るように、

それでも日常を続けた


遠い土地での出来事を「大変なことだ」とただ画面に映る光景を目にしていた。友人が親から帰宅を施され、途中だったゲームを中断し帰宅した。

帰宅して更なる衝撃を受ける。見たこともないほどの津波の被害。人々の暮らしをとてつもない海水が襲い、何もかもをのみ込んでいっていた。

画面の向こう側で。

原発事故も。
原発に残って防護服を着て作業をしている福島の映像。
あるまじき事故に「頑張れ、どうか助かって」と思いテレビを見る。
テレビは余震への注意と、一刻も早い避難を呼びかけ続ける。

原発の爆破映像が流れる。その深刻さを子供ながらに恐ろしく思った。
日本地図に福島を中心に中部地方までも含む大きな円が重なっている。
最悪の事態に陥った場合の汚染地域の範囲だと専門家は言った。
その円の中にぼくの家は含まれていない。

そう、安心したことを覚えている。

当時のぼくには、遠い土地の出来事だった。
それから数日間、いや数ヶ月間テレビの縁には青色の緊急ニュース欄が設けられ、CMやテレビ番組も自粛モード。
毎週観ていたバラエティ番組の組み替えに不満を抱いた当時のぼく。

何やら大変なことが起きていることは間違いなかった

けれど、それに向き合うことを強要された日々を過ごすことに
どこか退屈さと違和感を覚えていた。


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「第三者」であった彼ら

2年半後。
石巻を訪れる。
当時所属していた高校のラグビー部で東北遠征が行われた。
遠征といっても、ラグビーがメインで無く、被災地訪問。
石巻工業高校との交流が目的だった。

あの頃のぼくには東北=寒いのイメージが精一杯で、夜はどんなに冷え込むだろうとパジャマを選ぶのに悩んでいた。

それほどの距離が存在した。

仙台へと新幹線で向かう。初めての東北地方に未知と触れ合う楽しみがあった。
在来線に乗り換えて石巻へと向かう。
夏のジメジメした空気が幾らか和らいで、段々と車窓の風景も変わっていく。
降りた駅は無人駅で、車掌さんがホームに降りて30名ほどの切符を一枚一枚回収していく。こんな経験もぼくにとっては初めてだった。

町について驚いた。
アスファルトの道路に残る大きなヒビ。
道路が一部盛り上がり、車を止めるガードが張られている。
地面を突き破って飛び出すマンホール。
損傷が残り人の気配を感じない家の数々。
そんな光景が目の前に広がっていた。

画面の向こう側では無く、目の前に。
「あの出来事が起きた遠い土地」に来ているのだと。

その光景とともに、今でも忘れないことがもう1つある。

お昼には、石巻工業高校の高校生と交流があった。
生憎の雨で予定されていた交流試合は中止。
ぼくたちは準備をしていたハカ(ラグビー王国ニュージーランドの試合前に行われる儀式)を披露した。
その後のことだった。
訪問の感謝の意を込めて、石巻工業高校から昼食の弁当が振舞われた。
その時にひとりの先輩がとった行動。

「俺は彼らが食べへんのやったら、食べれへん」


そう言って弁当の受け取りを拒否した。
数に余裕がなく現地の高校生の分は準備されず、それを前に自分だけが食べることはできないと主張した。
確かに誰もが、自分たちだけが食べることに居心地の悪さを感じていただろう。
けれど食事を摂らない行為が返って、現地の人たちとの間に壁を作ってしまう恐れもある。
せっかくもてなしてくれた彼らに、その居心地の悪さを示す事は出来ない、と「食べない」選択をぼくは出来なかった。

ぼくは先輩の選択をただただ「清くて美しい」ものだと思った。

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「当事者」であろうという努力

そこにあったのはきっと「当事者であろうという努力」だったのだと思う。

その頃、ぼくの中にあった「可哀想」という彼らへの感情。


中学生の頃、テレビで見た衝撃的な映像の中にあった人たち。
それからの生活でも、ぼくらがあたりまえに出来ることが出来ないこと。
高校生の中には家族を亡くした方もいた。

ぼくにとって彼らは「第三者」なのだった。

ぼくの生活からは遠く離れた土地で、
大きな災害の後も力強く生きようとする
可哀想だというレッテルを貼り付けた「第三者」だった。

だから彼らの前で自分だけが食事を摂ることに申し訳なさがあったし、
かといって断ることは彼らの力強さを否定するような気がしていた。

先輩の行為は「第二者」への行為だったのだと思う。

遠い彼らに対する行為ではなく、目の前にいる同じ高校生に対する
彼らがどう思おうが、自分は「食べられない、食べたくない」と。

被災者の彼らと、非被災者のぼくら
可哀想な彼らと、可哀想でないぼくら
弁当のない彼らと、弁当のあるぼくら

その壁を作っていたのは、紛れもないぼくの意識で
それが「遠い土地の遠い存在」として「第三者としての彼ら」を作っていた。

その意識から外れ、ラグビーを愛する同じ高校生として「第二者」として、彼らを見る。
自分も彼らと同じ「当事者であろうとする」その選択と努力が忘れられなかった。

その日から、ぼくの中の“なにか”が変わった…
なんてことは無い。ただ、
「第三者」になることを嫌い、自分の関心がそこにあるのならば
「第二者」になろうと思うようになったのは、
きっとこの時の、この経験だろうとぼくは思う。


きっとホンモノの「当事者」になることは出来ない。

「あの日」を別の形で経験したぼくには、別の「あの日から」が存在する。
毎年 この日が近づくとメディアは思い出したかのようにぼくらに呼びかける。ぼくは「あの日」と「この土地」と「これから」に想いを巡らせようとする。
そうした時に「遠く離れた土地」から「画面の向こう側」を見ることは
自分が「第三者」で居続けるような気がして、

だから、足を運んで「この土地」の「今」と「あれから」を感じてともに「これから」を考えたい。
彼らと同じ景色を見ることで少しでも「当事者」であろうと努力出来ているかもしれない。

ぼくもまた違った形で「あの日」と「あの日から」を経験した。
実質的な被災があったかどうかは、関係しないのかもしれない。

「あの日」を生きたこと、何かしらの影響を自覚することも、また
「当事者」であろうという努力なのだと信じている。



「当事者」で、「第二者」でありたいと
ぼくは再びこの土地へ訪れている。


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これからを考える

今日感じたこと。
「誰かの生きづらさを伝えたい」
ぼくのやりたいこと。
伝えることで誰かの生きづらさが少し軽くなったり、自分の生きづらさを少し受け入れたり、肯定できたり。そんなことを人生をかけてやりたい。
ぼくはずっと自分の生きづらさを見ないふりをして、自分の中に溜め込んできた。
それを去年、少しづつ外に出し始めた。
誰かに話したり、共有することで幾らか救われた。
そんな取り組みをしていきたい。自分の知らないことをこの目で見て、心で感じ、言葉にしたい。
春から進もうとしている道はきっと間違っていない。
誰かの生きづらさを知ること。
情報を集めるんじゃない。ちゃんと、そこに生きる人と、起こっていることと向き合うこと。
電車に走らされるだけではなく、ちゃんと”いきもの”として、ことばにしてていきたい。
そのために「当事者であろうという努力」を忘れない。



こうして、仙台駅徒歩10分ほどこの前来た時と同じ
最上階11階の展望浴場とコスパが最高な「メルパルク仙台」で眠りにつく。
おやすみなさい。


続く。


まみや

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