僕がいじめられていた小学生時代
僕の人生は小学生のときから狂い始めていたのかもしれない。
あれをいじめだと認識したのは最近のことだ。
僕はいじめられていたと認めたくなかったのだろう。本当は最初からいじめだとわかっていたはずなのに。
それは小学二年生のときのことだった。
一年生から二年生に上がったときに転校生が多いという理由で本来はないクラス替えが行われた。たしか転校生で20人くらい増え、二年生が100人くらいの人数になったのだと思う。僕のクラスにも当然のように転校生が何人もいた。
ある日転校生である一人の女の子が僕に向かって酷い悪口を言ってきた。まあまあ傷ついたけれど、僕はそのときだけだと思って受け流した。でもそれだけでは済まなかった。酷い言葉は何度も何度も僕に向かって飛んできた。次第にクラスの他の人達も同じように僕に酷い言葉を言うようになった。僕の顔を見る度にいつもご丁寧に酷い言葉を投げつけてきた。気づくとその転校生の女の子はいじめのリーダー的存在になっていたようで、いつの間にかクラス全員が僕を同じようにいじめるようになっていた。彼女の影響力は凄まじく、クラスに居場所はなくなっていた。
そんな日が続き数日後、学校に行くと他のクラスの人からも同じように酷い言葉を浴びせられるようになっていた。気づいたら同じ学年の人全員が同じように僕に酷い言葉を投げかけているようだった。
基本的には証拠が残らない言葉の暴力だった。行動の暴力もあった気がするけどあまり覚えていない。
僕はそのとき小学校から近いマンションに住んでいた。同じマンションには僕と同じ二年生の女の子が三人いて、よく遊んでいた。その三人も学校に行くと僕に酷い言葉を飛ばしてきた。
僕がその頃いちばん仲良くしていた女の子と遊んでいたとき、彼女は申し訳なさそうにしながら自分の気持ちを伝えてくれた。
—僕を皆と同じようにいじめるフリをしないと、自分がいじめられるから、これからも学校では酷いことを言う—
そういう内容だった。
僕は「わかった」と答えた。
他の二人の女の子も同じことを考えていたのだと思う。プライベートでは遊んでいたけれど、学校では酷い言葉を言われた。彼女たちは自分の身を守ることに必死だったのだと思う。彼女たちだけではない。他にもきっといたと思う。でも自分がいじめられるのは怖いから。だからいじめに仕方なく乗っかっているように見えた。もちろん本気で悪意を持っていじめてきているような人もいたけれど。
集団心理の恐ろしさを感じた。リーダーが右向け右と言えば全員が右を向いていた。もちろんその先には僕がいた。小学二年生にここまでできるのかと思うと、人間が怖くて信用できなくなった。
先生はいじめに気づいていないようだった。いや、違う。あのとき僕は先生は気づいていないと思っていた。今考えるとそんなわけはないとすぐにわかる。あそこまで派手に大々的に、学年100人くらいを巻き込んだいじめに大の大人が気づかないわけがなかった。先生達は面倒ごとに関わらないように気づかないフリをしていたのだと思う。そんなことはなんとなく当時から気づいていたような気がする。
僕は学校を休まなかった。どれだけ居場所がなくても休んだら負けだと思って必死に通い続けた。もし休んだら自分がいじめられていると認めることになってしまう。認めたら自分が腐ってしまうような気がした。そんな自殺行為はできなかった。ただ、不登校になれば何かが変わっていたのかもしれない。先生も力になってくれたかもしれない。不登校になることが今よりいい結果になっていたかはわからないけれど。
いじめのリーダーである転校生の女の子は親の都合でたしか三年生の途中でまた転校したようだった。いじめのリーダーがいなくなると、いじめは少しづつ落ち着いてきた。だが、完全にはなくならなかった。結局四年生の終わりまでいじめが続いていた。
三年生だったか四年生だったか、その両方だったかはっきりしないけれど、同じクラスに障がいをもった男の子がいた。その子は基本的には養護学級にいたのだが、一部の教科や休み時間には同じ教室にいた。まだいじめられていた僕は休み時間に喋れる友達がいなかったのでその障がいをもつ男の子を教室から連れ出して遊んでいた。
というのは半分真実で半分は違う。
最初は普通に遊んでいた。でも次第に遊ぼうと言って連れ出して、僕はその男の子をいじめるようになっていた。
いじめられていた僕は自分より下の人間を作って安心したかったのだと思う。結局自分も弱そうな人がいたらいじめるんだと自覚すると、そんな自分に吐き気がした。
五年生になり最後のクラス替えが行われると、いじめはなくなっていた。それだけではない。学校で喋れる初めての友達がそこで二人できた。その二人とは卒業まで仲良くしていた。
障がいをもつ男の子とも同じクラスだった。僕は気まずくて彼のほうを見ないようにしていた。
僕はクラスの人とも普通に喋れるようになっていた。このときは自分の意見を言うことに躊躇はあまりしなかった。友達の存在は大きかったのかもしれない。
五年生のある日、積極的に僕をいじめていた人が他に誰もいないトイレでいじめの謝罪をしてきた。僕は彼に謝罪してほしいわけではなかった。僕は彼が悪いとは思っていなかった。右向け右のあの状況では仕方なかったよなと思った。でも少しだけ、謝るくらいなら最初からしなければよかったのにと自分勝手なことを思ってしまった。
あの逃げ場のない恐怖と息苦しさと、絶望感は今でも糸を引いている。
今の僕が人と関わるとき、この事件のことを思い出してしまう。人間の恐ろしさを目の当たりにしてしまって、人を信用できなくなった僕は今も人との付き合いに苦労している。怖くて自分の思っていることがはっきり言えないことなんて殆どだ。いま話している人でも、本当は自分は嫌われているんじゃないかと疑ってしまう。他にも、普通の人は考えないようなことで人間関係に苦しんでいる。人と健全な関係を築くことは僕にはできないかもしれない。それは全てこの事件が発端だと思う。この後の人生が狂ったのは恐らくこの事件が原因だ。