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ラジオやアニメや母との日々(80年代④)

 「頑張るので、しばし食わして下さい」
と、まだ仕事をしていた母を拝み倒して、有楽町ラジオ局から理不尽出禁を食らって、1年経たずした二十台半ば折り返し前の私、まだギリギリ十代の弟と何故か亡父の仏壇の掃除をしていた。亡父の命日が9月だったので、それもあったのだろう。因みに父が逝ったのは私が17歳で弟13歳だった。
 そこに一本の電話が入った。母の仕事先の偉いさんだった。
「あ、どうも母がお世話になってま…」
「えっと…驚かないで聞いてね。今から、○○病院来られる?」
母が食事会の寿司屋で倒れて救急搬送されたという知らせだった。
「………?」

 頭の中が真っ白で、訳も分からず、どうやってその病院に行ったかも覚えていないが、病院の玄関に入ったら、会社の人達が深夜の救急搬送の受付に居てくれた。
 ほんの一時間程前まで寿司屋で少し飲みながら普通に話していたら、突然椅子からズリ落ちて意識不明になったとか。とにかく頭痛を訴えていたとの事。
 いやいや。
一週間位前に知り合いの医師にCT検査をして貰い、1人で長崎に行って来たばかりなのに…確かに偏頭痛持ちで頭痛薬が欠かせなかった人だけれど…。

「詳しい事は明日、検査するけど多分『くも膜下出血』か『脳梗塞』かな」
と当直の医師からの宣言。
 その夜はどうしていいやら分からず、ラジオ時代からずっと一緒に仕事してきた当時のレポーターR子さんに連絡をすると、すぐに飛んできてくれた。
 現在の病院のように病院グッズが院内に揃っているわけでもなく、あるのは手術着のような入院着のみ。当然24時間体制ではないので、家族の付き添いは必然。そして翌日。

「お母さんは『脳出血』だね。この一週間が山だから、親戚に連絡しして」

ちょっと待てー! だった。
17歳で父が逝き、24歳で母もか?!

 ところが、たまたま搬送された病院が脳やリハビリに関する、今では権威中の権威の医師によって一命を取り留め、その後に見事に山を越え、実はそこからチョモランマ級の山を私達(私と弟だが)の前にそびえ立たせた。
 第2級身体障害。右半身麻痺。ところが右が麻痺になると言語野に影響が出るはずなのが、母の場合、あと5㎜ズレていたら言語野が危なかった手前で出血がとまり、原語明瞭のため、罵詈雑言の激しい事この上なかった。

それから約一ヶ月近く、私は病院の母のベッドの脇の簡易ベッドで寝泊まりして、フリーになっても見捨てずにいて下さった方達から回して頂いた仕事はしていた。勿論、母の事は内緒で…。
 消灯時間後は懐中電灯を持ち込んで、原稿を書いていると、当時の看護師さん達は不憫に思ったのか、ナースステーションを貸して下さり、コーヒーまで入れて頂いたのを覚えている。

 まあ、母との闘いはそれから40年近く続いたのだが、既に闘いの最中にもう一つの闘いが師匠からもたらされたお陰で、第二戦は上井草からはじまった。勿論、この時も母の話はシリーズが終わるまで誰にも話さなかった。

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