ワタナベ麻実

ラジオドラマでデビューの後、アニメーションのシナリオ、実写脚本、ノベライズ 構成等々、なんでも屋を経て、現在は様々な鎧を脱ぎ捨てて、これからが勝負かな…と。さて、明日は何を書こう…?!

ワタナベ麻実

ラジオドラマでデビューの後、アニメーションのシナリオ、実写脚本、ノベライズ 構成等々、なんでも屋を経て、現在は様々な鎧を脱ぎ捨てて、これからが勝負かな…と。さて、明日は何を書こう…?!

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    30年以上アニメ界に関わってきて、覚えていること、感じたことを書き留めておこうと思った

  • 戸籍〜この星の下〜

    この半年間に起こった、一生のうちに1〜2度しかないだろう事を覚えてうちに書き留めておこうと思った。

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    来年は還暦らしい?! そんな中で今年の初めに大きな転機が起こったので、日々の事を書き留めて起きたい。自分の気持ちの変化と共に、もしかすると今後必要になる人たちにプチ情報を。

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戸籍〜この星の下〜

「間違いなくインフルエンザだね。熱を下げなくちゃいけないから、吸引を使おう」 行きつけの医師のもとに這うようにたどり着いたのは、高熱を出して2日目のことだった。前々夜、あまりの暑さに目が覚めて、熱を測ると39度を超えていた。夕方まではどうということがなかったのにだ。成人になってから「インフルエンザ」にかかったことがなかったため、即、病名と結びつかなかったのと翌日は40度を遙かに超え、ベッドから起き上がれなかったために、インフルエンザという病名にたどり着くのに時間がかかった。

    • Re:Start 2024/07/03

      …若干熱中症気味か…。 食欲がない…。 気圧による喘息の軽い症状か…。まあこれは我が家の両親からの遺伝なので医者のお墨付きで「DNA」に含まれているから致し方ない。  横浜で生まれて、紆余曲折あって、人様より早くに(多分?)親との死別、介護40年を終え、現在はガキンチョ相手に奮闘している。つくづく、年はとっても好奇心が残っているせいか、とにかくシナリオと介護の人生だったので、世間一般の生活に疎すぎる自分を埋めるために50歳近くになって大学に復学してみたり、専門学校の講師をして

      • Re:Start 2024/06/23(番外編)

         今月はいろんな事がある。自分のことなら65歳になって 「なにがめでたい!」と佐藤愛子先生ばりに喚いていた。年金や年金基金の手続き。そして、落ち着いていたはずだった喘息の予兆がチラリ。  亡父が戦時中沖縄にいたことで、玉砕の日ということは毎年、彼の地に想いを馳せる。陸軍内の空軍だったのでね、父は。陸士だったので、写真、いっぱいございます。 で、沖縄でのことは亡母や鬼籍に入られた戦友や、戦後のサナトリウムの友人からいろいろ聞かされたし、その苦しい胸の内も垣間見たことはある、程

        • Re:Start 2024/06/12

           この写真自体が第二次世界大戦直後の東京だと信じられるかどうかは別として、事実である。杉並のサナトリウムでの、結婚前(出会って何年ごろか)の両親と当時の看護師さんである。この看護師さんには私が19歳で盲腸になった時、ここが総合病院になった時にお世話になった(その時は確か外科の婦長さんになられてた)。  東京が焼け野原なのに、この穏やかな感じはまさにファンタジーだ(苦笑)。しかも、すでに洋装だし・・・。いや、母はモンペを履かなかったと聞いているので、当たり前の服装なんだろうな。

        • 固定された記事

        戸籍〜この星の下〜

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          Re:Start 2024/06/01

           我が家は亡父が大正生まれて、亡母が昭和一桁の生まれだ。双方とも当時の社会情勢から鑑みても裕福な家に育った方だと思う。亡父は当時の職業軍人、亡母は財閥解体に引っかかった家の我が儘娘。親類からは「ボンボンとお嬢の結婚」と言われていたそうだ。 そんな二人が出会ったのが、上記の写真の場所。東京は杉並に今は総合病院となっているが、イギリス発祥の救世軍(*1)が作ったサナトリウムだ。 両親の家系共に喘息疾患を抱えており、戦時中に結核を患いそこで手術をした。第二次世界大戦の最中に手術をし

          Re:Start 2024/06/01

          Re:Start 2024/05/30

           生まれは横浜の海岸通りだったけれど、母方は東京の赤羽の高台のほう。 有名なサッカー場の近くでした、とだけ。 母の生まれは東京で、祖父が戦前からあった大きな靴の会社(名前は勘弁)の偉い人だったらしく、母を入れて兄弟が全部で10人くらいいて、母は長女で7人目かな? つまりアレですわ。乳母日傘ってやつでして(苦笑)。行儀見習いとして、祖母の親類の女子が常に2〜3人、お手伝いとして行儀見習いでいたわけで、まさに箸の上げ下げしかしなかったお嬢であったわけですわ。で、上の写真の江戸切子

          Re:Start 2024/05/30

          Re:スタート 2024/04/26

          今年の正月は、コロナ罹患から始まった。(能登の震災の後だが)。 で、昨年秋からちょっと変わったアルバイトもしていたので、どっぷり疲れが溜まっていて、気がつけば世の中はGWに入ろうとしていて・・・。 何か忘れているとフと気づいた。存命なら、母の誕生日だ。(97歳だなぁ、生きてたら)で、慌てて薔薇を購入した。仏花に相応しくないとは思うが、母は昔から仏花が好きではなかった。たまに亡父の仏壇に備えるとしてもブーケに近いか、百合だった。 でも母は、薔薇。(ちなみにカーネーションを嫌った

          Re:スタート 2024/04/26

          Re:スタート 2024/01/18

          「コロナだね〜」 2024年の三が日明け、医者のその言葉から始まった。 「うそだー!! そんなはずはない!!」 頭の中でそんな思いが一瞬グルングルンしたのはたかが10分位だったと思う。 喘息疾患を持っている私は相当、注意してここ何年かのコロナ禍を乗り越えてきた。 が、薬局で抗生物質を貰って家に戻り、すぐ服用したら、さっきまで激痛だった喉がスーッと楽になった。自分の唾も飲み込めず、声もほとんどでなかったのに…。 コロナかぁ…油断したなぁ…という観念に近い安堵感で案外早くに納得し

          Re:スタート 2024/01/18

          ラジオやアニメや母との日々(80年代⑤)

           あの頃は携帯電話なんぞという文明の利器はなかった。せいぜいがファクシミリと公衆電話から操作する留守電でメッセージを聞くくらい。 母の病室に泊まり込んでいた私は着替えに帰るくらいで家にはほとんどいなかった。そこに、師匠から留守電が入っていた。何事かと思って、病院の公衆電話から連絡を入れると 「今、仕事できるか?」 もちろんである。母の事もあって、弟共々、家の屋台骨をよいしょ! と担がなければいけないのだから即答。 「じゃあ、上井草行ってくれるか?」 は? である。当時の上井草

          ラジオやアニメや母との日々(80年代⑤)

          ラジオやアニメや母との日々(80年代④)

           「頑張るので、しばし食わして下さい」 と、まだ仕事をしていた母を拝み倒して、有楽町ラジオ局から理不尽出禁を食らって、1年経たずした二十台半ば折り返し前の私、まだギリギリ十代の弟と何故か亡父の仏壇の掃除をしていた。亡父の命日が9月だったので、それもあったのだろう。因みに父が逝ったのは私が17歳で弟13歳だった。  そこに一本の電話が入った。母の仕事先の偉いさんだった。 「あ、どうも母がお世話になってま…」 「えっと…驚かないで聞いてね。今から、○○病院来られる?」 母が食事会

          ラジオやアニメや母との日々(80年代④)

          ラジオやアニメや母との日々(80年代③)

           デビューの頃のドタバタは「線」ではなくて「点」で覚えている。そう、 いろんな事をやらせて貰っていたので、「電リク」(分かるなかぁ)の電話対応でレコード室に走ったこと(この頃はレコードざんした)。携帯電話なんぞないから、無線で中継車と繋いで初めての時「何言ってんだかわっかんねーだろ!」と怒鳴られたり、提クレ(提供クレジット)すらまともに書けずにアナウンサーにどやされたり…。どやされたことは覚えているもんだ。  で、ほぼ並行して始まったのが亡くなられた松本零士先生の『1000年

          ラジオやアニメや母との日々(80年代③)

          ラジオやアニメや母との日々(80年代②) 

           1980年12月23日は冒頭に書いた初めてのラジオドラマデビューの日。 その当時は転勤族でもないのに引っ越しが多かった我が家は千葉にいた。今では古い映画でしか見ないだろうがカセットテープの録音機能がついたが聴けるAM/FMラジオの、どでかいラジカセ。たまにラッパーが肩に担いでファッションとして踊っているのを見かけることがあるだろうか。幸い、亡くなった父が新し物好きだったせいか、それが一台、我が家にあった。 今の様にネットではないので、東京主要ラジオの波は当時、電波塔の具合で

          ラジオやアニメや母との日々(80年代②) 

          ラジオやアニメや母との日々(1980年代)

           今から40年以上も前、私は山の手線の中で考えていた。 「来年の春には就活するかなぁ…」 17歳で父が逝き、母のおかげで私立の高校を出て、エレベーター式短大には奨学金とアルバイトでなんとか卒業し、さらには母や周囲の人の反対を押し切って、現在の「ライターズスクール」(日本脚本家連盟)に半年通いながら、有楽町のラジオ局にショートショートのラジオドラマ原稿を持ち込んでいた。勿論、アルバイトの掛け持ちをしながら…。 スクール時代から当時のプロデューサーに「持ち込めば読むよ」と言われて

          ラジオやアニメや母との日々(1980年代)

          Re:過去と未来とアニメと私⑩

          このテーマもここで最後にしようと思って、年が明けてしまいました。 さらに母が逝って、翌年からコロナ禍で3年も経ってしまった。 長い長い、母の介護を終え(何年間じゃなくて何十年すよ)ストレスと過労で仕事中に、私自身が入院、手術(過労入院は数知れず、手術はコッソリ2回やってるんすよ😅)をしながら、なんとかやってきました。 1980年代から、ラジオ、アニメ、実写、映画、小説…等々お声がけ頂いた仕事は「断らない精神」でやってしました。 中には、原稿料や二次使用料取りっぱぐれ、ありま

          Re:過去と未来とアニメと私⑩

          Re:過去と未来とアニメと私⑨

           今、改めて耳から読む”名作本”が増えて来ているが、世間がバブルと言われた頃に私達の世界は「仕事バブル」で遊んでいる暇などなかった。まぁ、後々、ありがたい事にはなったのだが。 テレビシリーズも多かったが、単発のVHS(今でいうとBlu-rayになるのかな)も多かった。ドラマCDに至っては、月に3本並行して書くという荒技もやってのけた。若かったんだろうなー😅 OVAシリーズも現在のテレビシリーズの1クールより長い作品もあったし、ドラマCDも長いものでシリーズ全体で10本はあった

          Re:過去と未来とアニメと私⑨

          Re:過去と未来とアニメと私⑧

           少し間が空いてしまった。 暑かったしねぇ(2022/06後半)。頭の中が「あれ? 今って8月?」とか頭の中が麻痺していたのも事実だし、夏には強いはずの私が初めての「熱中症」もどきを起こして二日ほど頭痛と倦怠感で、水と鎮痛剤のみで過ごすという、末期的な症状を起こしていた。  台風が来るようで(ん? 関東は熱帯低気圧になるのか?)久々にあまり空調のお世話にもならない状態になっては来ている。  で、用意していた90年代の手帖をようやく開いてみた。 このあたりから、昔で言うところの

          Re:過去と未来とアニメと私⑧