ラジオやアニメや母との日々(1980年代)
今から40年以上も前、私は山の手線の中で考えていた。
「来年の春には就活するかなぁ…」
17歳で父が逝き、母のおかげで私立の高校を出て、エレベーター式短大には奨学金とアルバイトでなんとか卒業し、さらには母や周囲の人の反対を押し切って、現在の「ライターズスクール」(日本脚本家連盟)に半年通いながら、有楽町のラジオ局にショートショートのラジオドラマ原稿を持ち込んでいた。勿論、アルバイトの掛け持ちをしながら…。
スクール時代から当時のプロデューサーに「持ち込めば読むよ」と言われて三ヶ月くらい、毎週の様に原稿を持ち込んではボツを食らって、電車の中で大きなため息をついていた。
1980年の冬、間もなくクリスマスになろうかという時に周囲の明るさと正反対のどんよりした思いで
「こんな内容のショートショートが通るわけない。だってクリスマスネタなんか山ほどあるだろうし」
と、出す前から肩を落としていた。
ところが、思いがけないクリスマスプレゼントを貰った。
先輩方は「ショートショート」が得意な方ばかりだったので、敢えてクリスマスネタが一本もなかったとか。
どうしようもない原稿でもクリスマス週にクリスマスソングがかからないラジオはなかろう! というプロデューサーの「仕方なし!」の判断で、ベタベタにクリスマスネタの私の原稿が採用になったのだ。
勿論、収録までの何時間かで大直しし、凄まじいアドヴァイスと叱咤の中で初めての採用。
7分間のラジオドラマ収録で、初めて「脚本」で名前が電波に乗った。
それが初めてのメディアデビューだった。
2014年に期間限定で復活した『夜のドラマハウス』である。
それまでの私は一ラジオファン、アニメファン、脚本家になるという妄想に縛られた夢追い人。
このラジオデビューが後にアニメ、ドラマCD、映画、小説に繋がっていくとは二十歳そこそこの私には気がつきもしなかった。