ラジオやアニメや母との日々(80年代⑤)
あの頃は携帯電話なんぞという文明の利器はなかった。せいぜいがファクシミリと公衆電話から操作する留守電でメッセージを聞くくらい。
母の病室に泊まり込んでいた私は着替えに帰るくらいで家にはほとんどいなかった。そこに、師匠から留守電が入っていた。何事かと思って、病院の公衆電話から連絡を入れると
「今、仕事できるか?」
もちろんである。母の事もあって、弟共々、家の屋台骨をよいしょ! と担がなければいけないのだから即答。
「じゃあ、上井草行ってくれるか?」
は? である。当時の上井草と言えば、旧S社しかない。
それ以上の情報もなしに、昼間は看護師さんがいらっしゃるので、何事かと思い、そそくさと出かけると…
「御大のシリーズ?! 聞いてないってば!!」
聞けば、そろそろ新人を投入したいので、1年シリーズをやるのだと。
それが「L」だった。
それからはもう、必死さと罵詈雑言の嵐。
「誰だよ!! こんなド素人呼んだの!!」
「だーから、コイツがコイツを裏切ったって話にすりゃいいんだよ」
「ON AIRまで一ヶ月半しかないのに、まだ本があがらねぇ、ってか?!」
泣きたいのはやまやまだったが、泣いてる暇なんかないのだ。ハラスメント? そんな言葉なかったわい!
当時は手書きだったため、最後は喫茶店に半日居て、チーフに原稿用紙一枚ずつ突き返されて、心の中は号泣、顔は必死。
チーフと文芸担当がよく付き合って下さった!! 今では感謝しかない。
終わった途端、そんなつもりはなかったが、ポロポロ涙がこぼれた。
「泣くなよ〜!! 俺たちが泣かしてるみたいじゃないかよ! さ、呑みに行くぞ!」
その晩は、新宿の飲み屋で朝までべろんべろん…。
母はその時は、弟に泣きついてなんとかしてもらった。
ここからが仕事と介護の二足の草鞋40年のはじまりだった。
再三言うが、母の話は現場には秘密。言ったら、速効降ろされるという恐怖の方が先立ったので、自分のメンタルを鍛え、体を酷使するしかなかった。
この40年の間に私がストレスからくる内臓疾患、神経系統の休養しか治す道なしで、何度入院し、何度生死の境を彷徨ったことか。
上井草のお陰で、仕事は増え、母の介護も倍増したので、コロナは丁度いい休養期間だったかも…?