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Re:Start 2024/05/30
生まれは横浜の海岸通りだったけれど、母方は東京の赤羽の高台のほう。
有名なサッカー場の近くでした、とだけ。
母の生まれは東京で、祖父が戦前からあった大きな靴の会社(名前は勘弁)の偉い人だったらしく、母を入れて兄弟が全部で10人くらいいて、母は長女で7人目かな? つまりアレですわ。乳母日傘ってやつでして(苦笑)。行儀見習いとして、祖母の親類の女子が常に2〜3人、お手伝いとして行儀見習いでいたわけで、まさに箸の上げ下げしかしなかったお嬢であったわけですわ。で、上の写真の江戸切子のショットグラスは東京大空襲を逃れた時代物。幼い時の私は「そんなん知らんもん」とばかりに1ダースはあったグラスをパリンパリン、割っていたようです。現存しているのは上の三つ。
で、私自身はテレビドラマの『隠密剣士』が始まるとテレビに張り付いていたそうで、(1962年〜だから、私は三歳)覚えておりませんがな、というガキでした。明確に覚えているのは大好きだった『忍者部隊月光』(1964年〜だから5歳あたり)。
平成世代が「ファンタジー」と呼ぶ時代にはしっかり記憶がある。
とにかく両親の都合で引っ越しが多かった。横浜周辺で4回、東京に来て7回かな・・・。
その間に気がつけばアニメや特撮ばかりを観るようになっていた。と、同時に映画好きだった父のおかげでジョン・ウェインやスティーブ・マックイーンの出演するアクションものは結構観ていた。『荒野の七人』なんぞはテレビの前に正座させられて、
「この作品の原作は日本の『七人の侍』という黒沢明というすごい監督の作品ををハリウッドがリメイクしたんだぞ」
と、丁寧な解説付き。あ・・・それで思い出したが、プレスリーがハワイで衛星中継でコンサートをするときの父のはしゃぎようは「小学生か?」という位だった。おかげでちゃんと観たけど・・・(苦笑)
こうした逸話は我が家にはたくさんあったので、私が業界に入るのは、この辺から地ならしができていたはずなのに、盛大に父の友人たちから反対された。今はもうあっちの世界で飲んでるだろう、久松保夫さん、大宮悌二さん、永井一郎さん、深沢一男さん等々・・・。結構なビッグネームだが、私にとっては亡父の友人達で、父亡き後はずいぶんとお世話になった。
話がちょい逸れたが、思い起こせば我が家は家族全員で夕飯を囲むことはほとんどなかった。仲が悪いわけではなく、むしろ両親は当時にしては珍しく仲がよく、小学生だった弟と中学生だった私は、母が私たちと一緒に夕食をとっているのを覚えていない。新潟生まれの父は「楽しい酒好き」の人で、毎晩飲んで帰ってくるのを、母は待っていて、父が機嫌良く戻ってきてから母と飲み直して、そこで何かつまんでいたらしい。(家にはだるま/あ、ウィスキーね/が常備してあった)とにかく仲の良い両親で、父が喘息で急逝したときに、私と弟が後から病院に駆けつけたことを最後まで信じなかった。
というわけで、父は私が17歳の時に急逝して、母は私が24歳の時に身体障害者となった。そこから、母にいやな顔されながら業界入りしたんだっけか・・・。