ラジオやアニメや母との日々(80年代②)
1980年12月23日は冒頭に書いた初めてのラジオドラマデビューの日。
その当時は転勤族でもないのに引っ越しが多かった我が家は千葉にいた。今では古い映画でしか見ないだろうがカセットテープの録音機能がついたが聴けるAM/FMラジオの、どでかいラジカセ。たまにラッパーが肩に担いでファッションとして踊っているのを見かけることがあるだろうか。幸い、亡くなった父が新し物好きだったせいか、それが一台、我が家にあった。
今の様にネットではないので、東京主要ラジオの波は当時、電波塔の具合で入りやすい局と絶対に入りません局に分かれていた。千葉はデビューした局の入りにくいところ。デッカいラジカセ抱えて電波を捕まえるために家中を走り回った。
それは今では分からないだろう昭和ファンタジー。
一方、『夜のドラマハウス』で一本採用された時、私はまだ20歳と半年。
切っ掛けという運命は自分でも気がつかないうちに振ってくるらしい。翌年の2月だったと思うが「直しなし」の状態でショートショートが採用された途端、局の下請けプロダクションに所属が決まってしまった。当時の名物プロデューサー。ドン・上野によって「はいっとけ」と言われたと思う。それからというもの、ライターとしてだけでくADのお目見え以下として、有楽町の古いビルを駆け回っていた。お茶出し、弁当手配、コピー、伝言、等々なんでもやった。その合間に『夜ドラ』の原稿を書いてはボツを繰り返していた。
二つ目の切っ掛けは人気が上がってきたアニメ(このころ明確にこの言葉はなかったと思う)のラジオドラマ化。「ラジメーション」と言われていた時期があったと思うが、私はこの時に初めてこの言葉の誕生のさなかにいた。
勿論ドラマを書くのは今や大御所と恐れられるF先輩。
問題は今の様に市民権がなかったアニメを周囲の大人達が全くご存じない。声優さんも、既に鬼籍に入られた方や今やレジェンドと言われる方々の人気の有無。
伊達にファンを名乗ってなかった私は、周りから見たらタダのヲタクだが、当時の知識だけはあった。アトムのテレビ放映に間に合った最後の世代だし。(苦笑)
懐かしい『オールナイトニッポン』でアニメ、声優特集の時は偉い人から先輩、同士達が情報を求めて聞きに来て下さったので、ペーペーの私でも、アニメスペシャルをやるときはスタジオの隅っこでスタンバイさせてもらっていた。声優さん達も私が担当キャラをよく知っていた事と、若造だったので話しやすかったのだと思う。私といえばガキの頃から雲上人と思っていた方々に気軽に声をかけられ、おめめキラキラ、ダイヤモンド状態でいた。
勿論、原作者の先生にもお目にかかれて若造、大興奮だった。
その当時のレジェンド声優さん方は今でも、それなりに覚えていてくださって、ほぼ同時期にデビューした声優仲間も文明の利器で繋がっている。
(名前出したら、驚くぜ…フッ)
この頃気分は、まだ学生の延長。そりゃ就活してないのだからそうだろう。
ここからが長いんだ(苦笑)。