19歳のヒーローに恋をした。
特別号。これは、ラブレターである。
男子バレーボールを好きになったのは正確に言うと、石川祐希くんがきっかけだった。
清水邦広さんもだいすきだけど、それは石川祐希くんが現れてから、色濃いものになった。石川祐希くんのデビュー戦が、清水邦広さんキャプテンの時代であったからだ。
わたし自身、小学生の頃は女子バレーのへなちょこキャプテン、高校生の頃は恋がしたくて、とりあえず男子バレーボール部のマネージャー。と言った経歴があり、確かにバレーには興味や知識がある方ではあったが
本当の本当の意味で男子バレーを好きになったのは、今の「石川祐希」くんの存在である。
二度目に言うが、これは、ラブレターである。
そしてここは、わたしが「好きなもの」について語る場所だ。
*
石川祐希くんを見たのは
わたしが大手企業を辞めて、フリーランスandコンパニオンでホステスを始めた頃だった。
正確に言えば「この先どうしたらいい、、」と、世の中をなめていたことに気づいた、26歳の頃だった。
昔のコラムでも書いたけど、大手企業を辞めると言うのは、その後の税金地獄に最低半年から1年は苦しめられる。
社会保険をなくし、全ての手続きにくたびれる。
自由を手にし、人間関係の呪縛からは解かれるが、当たり前に色々と大変なわけで、当時のわたしはまだその現実を適当にしか理解していなかった。
様々な理由があり、わたしは仕事を辞めると言う選択肢にしか未来がなかったのだが。
とりあえず、フリーランスでは当面食ってはいけそうにもないので、夜のコンパニオンを同時進行ですることに(これは会社辞める前からの計画内のことである。)
コンパニオンの仕事と言うのはわたしには向いていなかった。
そもそも夜の仕事が向いていないと言うのはわかっている。
シンプルに、好きな人じゃない人を好きだと言えないのだ。それだけのことだ。
ただ、どうだろうか。OLよりかはもしかしたら向いているのかもな!?髪の毛も染められるしな、好きな時間に起きれるし、何より集団行動ってやつができない。病気なのだ、これ。
そして気づく、夜だって集団行動だよ。なんなら女の欲望が渦巻く、いちばん嫌な集団行動なんだよ。その中で一匹狼を貫くって、生き地獄のようだよ。
結局どこで働いても人間関係はしんどい。間違いない。だからこれを読んでるみんなと手と手を合わせ、愚痴を合わせ、生きていこうと思う(なんやねん急に)
今でも結局、ホステスをしている。
コンパニオンとは違い、銀座の一流店ではあるが、テレビや絵描きとして成長したのち、結局振り出しに戻っている感じすら否めず、この文章を書きながら、
「あれ、わたしこの時と同じじゃね?」と、自分の人生の恥多き時間にうんざりする。
誰かに申し訳なくすら思う。(みな、家族、ご先祖様、こんな出来損ない人間でごめんなさいな。)
話は戻る。
コンパニオンの控え室と言うのは「鶏小屋」の様である。
鏡張りの8畳くらいの部屋に、ヘアアイロンが5台くらい散らばっており、カーペットに染み付いた誰かの香水の匂い、借り物の衣装が何枚か、一日1500円から3000円で借りれますみたいな値段順で並べられている。
そして、8畳では足りない女の子の数。常に15人はスタンバイ。
着替えるドレスやストッキングに誰かのファンデーションの粉が飛び散る。
ここもまた、地獄であった。
わたしは、キラキラと胸にハート模様のビジューの散りばめられた赤いドレスに着替えていた。髪の毛のセットは500円。固められたケープが臭い。
そして、その8畳の部屋にはテレビが一台置かれていた。
わたしは「はぁ、くせーな、ファンデーション。はぁ、行きたくねーな。誰か税金分だけでいいから金くれよ。(最低)」とか、散々な思いを心に巡らせながも口紅を塗り直していた。出勤まであと30分を切っていた。
そこにテレビの声が飛び込んできた
「石川祐希ーーーーーぃ!!!!20点目です!!!彼はなんなんだ!石川祐希!!!」
誰かの名前を解説者の方が連呼している。
それは、男子バレーの映像だった。
アメリカ戦。オリンピックの切符を握る大切な大会であった。
わたしは口紅を持ったまま、テレビに視線を向け続けた。
目に映るのは、石川祐希と言う少年だった。
19歳だと言う。日本史上最年少で、このVリーグのアメリカ戦に立っていると言う。
彼は初参戦で20得点をあげていると言う。
さらに今、またスパイクを打って決めてみせた。
「え、そんなことがあるん・・?」目を疑った。
そう、わたしは、昔からバレーボールが好きだった。そして、男子バレーが特に好きでマネージャーをしていたのだ。
全ての忘れていた記憶が蘇る。
そして、次から次へとわたしの目に飛び込んでくるのは、石川祐希と言う選手がありえない高さとスピードと柔らかさで、対空時間の長さを武器に、飛んで、拾って、飛んで、スパイクを決めていく様子だった。
素人のわたしが見ても、彼だけ全く色がちがう、それはもう「天才」「逸材」と言う他にないプレーだった。
身体が硬直した。テレビから目を離せず、気づけばわたしは「がんばれ、、!がんばれ石川祐希くん!!」と言っていた。
これは大袈裟ではなく本当で、
この瞬間の記憶が鮮明に残っているから、8年経った今でもこんなに文章がすらすらと書けてしまう。
わたしは出勤まで30分しかないなか、もう20分が経っていた。
お店まで余裕を持って、コンパニオンの控え室から10分前にでると決めていた。
ただ、わたしはもうダメだった。
彼を見ざるおえない。
わたしは動けなかった。
お店に嘘の連絡を入れた(※ごめんなさい)
「突然の体調不良で、、」
ペナルティは100%とられるが
そんなことはどうでもよかった。
この試合を見なければいけない。多分わたしの人生を彩る人だ。
石川祐希くんは、それほどに輝いていた。
この気持ち、他にもたくさんの方が抱いたのではないか?
(もしくは、わたしが病的な直感を持っているタイプだからか。笑)
"next4"と言った、アイドル文化みたいなものが石川祐希、柳田、山内、高橋、とはじめて「あえて」つくられた時代でもあった。
男子バレー人気が劇的になかった時代の、本当の意味の最後の賭けだった様に思う。
その痛々しさにも惹かれた。
石川祐希くんを19歳の頃から見ている。
彼は当時、喜怒哀楽が激しくて、プレー中はとくにあまり笑わなかった。
もう「精一杯」と言う感じだった。
怒りを露わにするタイプで、それを清水邦広さんが声に出さずとして、なだめていたような印象。
逸材としてすぐ世界にも注目され、サーブでは全員の餌食となり、「石川祐希にスパイクを打たせない!」とものすごいサーブ地獄にあって、心が折れていく様子を当時は見た。
だが彼はすごかった。
(かなりかなりかなり省略するが)
彼はその後、イタリアに3ヶ月渡り、のち、本当にイタリアのセリアAに所属する。
線の細いイメージのあった70キロ台の体重を85キロまで肥やし、
次に日本の大会でハッキリ見た頃には、違う人のようになっていた。
どこが一番ちがうかと言うと
めちゃくちゃ笑顔で、みんなを笑顔にしていたところだ。
ニコニコしている。余裕がある。
インタビューもヘナヘナしていたのに、言葉の全てに確信や思いがあり、見てるこっちにもストレートに伝わってくる。
更にそれを言葉だけで終わらずに達成してくる。
彼はあの日から時を経て日本の「キャプテン」になってた。
日本のランキングは12位→7位となり
この前の試合で銅メダルをとり7位→5位となった。。
もう、感慨深すぎるよ。これ書いてるだけで泣きそうなんですが、凄いんですよ本当に。
「チームよりまず、個の力。そして"一点を取り切る力"。あきらめない。世界一を目指す。」
何度も彼はそう言っている。
そしてそれを本当に有言実行しようとしているのだ。
清水邦広さんがキャプテンだった頃、セッターの藤井選手がガンで亡くなってしまったニュースも新しい。まだ31歳で、しかも結婚したばかりだった。パリオリンピックを夢見ていた選手だ。
その夢が叶おうとしている。
パリオリンピックの切符を賭けた戦いが今年ある。
とってほしい。
わたしはとにかく、男子バレーに救われた一人で、石川祐希くんに心を奪われ、そして今も生きる糧となっている一人だ。
彼を思うと胸が苦しくなり、これはもう恋だとは思うが
それはなんか彼のプレッシャーを感じているような気持ちでもある。
これは、、、
本当の意味でまとまらない日記であり、ラブレターどころか、ただの解説者となった。
あかん、取り返しがつかないが伝わっただろうか。
わたしはあの日から時が止まっていて、今でも19歳の彼は心の中で輝いている。
今の方がもっと輝いているが。
本当に彼等が好きだ。男子バレーボールが好きだ。
石川祐希くんが大好きだ。
好きだと言う気持ちをこんなにも持たせてくれて、本当に感謝しかない。
永遠にわたしのヒーローだ。
コンパニオンのわたしと、今のわたしは結局何も変わっていないのかもしれないけど
石川祐希くんはどんどん変わっていく。
だからわたしも
ちいさな夢をあきらめないよ。
変わり続けるよ。
どんなに小さくても。
ああ、一回でいいからハグされたい、石川祐希くんに(ファンの皆さんごめんなさい)
今日もがんばったね、
ありがとう。