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動きを「能う」ムラブリ族〜不確実性をかわして柔軟に生きる構え「くっつかない」〜

都内で毎月開いている対話会に、タイの少数民族ムラブリ族のところで過ごしたことがある人が参加してくれて、話があまりに面白かったので、別途クローズドでお話会を持たせてもらった。その中で、響いたキーワードが"動きを「能う」"。この民族を研究している文化人類学者、二文字屋脩さんの論文のタイトルだ。

ムラブリ族は、バナナの葉でつくった簡素な風除けをつくって動く。自然環境に左右されやすい状況で、豊富な食糧を求めるという積極的、能動的な理由というよりむしろ、周囲の食糧が減少したり、廃棄物や排泄物がたまったり、社会構成員同士の軋轢や、死の穢れなどを避けるという消極的・受動的にも見えることで移動をするらしい。

定住民は居場所が固定されるから、不都合が起きた場合、その場でなんとかせざるを得ない。そこで、結果的に外に対して(社会に対して)働きかけることで問題を「解決」する方向に向かうが、遊動民であるムラブリは、単純に移動するだけでそれを「解消」する。

土地との関係だけではなく、家族を含めた人との関係においても、「くっつかない(身を引く)」ことを大切にしているようで、親であっても子の意志を尊重し、介入しすぎない事例が紹介された。

ムラブリのことばを借りると「自由とは、一人で考え、一人で行動することだ」そうだ。実際、一緒に狩りに出かけても、それぞれのタイミングでいなくなったり、社会構成員間のルールを破ったとしても「その人次第」という捉え方で、必要以上に介入しない様子が見られるという。

この土地とも、人とも「くっつかない」というあり様に私は風通しの良さを感じる。そして、現代の社会に感じられる息苦しさは「くっつきすぎ」にあるのではないかとも思う。ある土地に定住し、時代の変化が少なかったり、変化が一定方向で固定化されていると、いろんな場面で「くっつき」(依存)が生じて身動きが取りにくくなる。環境や関係性が固定化されている分には、それも機能的かもしれない。しかし、度重なる自然災害やコロナの流行を経て、実は社会は不確実性に満ちていたことが思い出される今、「くっつきすぎ」は、かえって危ない。

不確実な世界を生きる上で重要なのは、実際に動くことではない。いつどこで生起するかも分からない好まざる状況を事後的に認識した際に、いつでもそれを躱(かわ)すことができるよう、いつ何時も〈動き〉が可能な状態を創り出しておくことである。もっとも、そのような状況は自ら望めば得られ
るようなものではなく、また待っていれば誰かから与えられるようなものでもない。個人の自律性としての自由の価値を互いに認め合いながら、身を引くという静かな相互行為を他者ととともに繰り広げ、余白を生み出すことによって初めて可能となるものである。・・・。概して、遊動性に根ざす生にとって重要であるのは、実際に動くことではなく、〈動き〉を能う ことである。

〈動き〉を能う― ポスト狩猟採集民ムラブリにみる遊動民的身構え ―二文字屋脩 

”実際に動くことではなく、〈動き〉を能う”これは、古武術やいろんな道にも通じる、実はいつの時代にも必要な身構えのように思う。あたかも人間か自然をコントロールできるかと思われた時代が終わり、全てのものと共に変化しながら生きていくためには、外に働きかけけるという「能動」だけでもなく、ただ受け入れるという「受動」だけではなく、環境と共に自律的な意思を持って生きていくという「中動」の様な生き方が必要なんだろう。ムラブリ族のあり様はその生き方を私たちの身体は知っていることを思い出させてくれるようだ。



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