身体感覚とことば:「わざ言語」 x 「ことばの焚き火」
「ことばの焚き火」を書くにあたって、著者4人が何度も話し合った中で、大切にしようとしてきたことが「身体性」である。対話をすると、身体感覚が変わることを実感していたので、「考える」のではなく、「感じる」ことを重視した。最近、積読が溜まった書棚を見るとふと「わざ言語」という本が目に止まった。そして、なんとなく「今読むものだ」と思って、ページをめくっていると、「ことばの焚き火」には、結構「わざ言語」が書かれていることに気づいた。
わざ言語とは
「わざ言語」には、そもそもの「わざ言語とは」について、以下のような文章が引用されている。
「わざ言語」は"指導者と学習者との間に「身体感覚の共有」と呼ぶべき関係性の構築を促す媒介物として位置付けられている"という。「ことばの焚き火」の著者と読者の間で起こって欲しいことも、言葉にするとこれに近い。頭で考えるというより、身体感覚を共有したいと思って書いたのだ。
わざ言語の3つの役割
また、この本では、「わざ言語」が役割において3つの種類に分類されている。
①は本文の例を借りると、日本の民俗芸能の中で、扇を使うとき「天から舞い降りてくる雪を受けるように」という感覚的な表現が上げられる。「ことばの焚き火」で表現している「焚き火に薪をくべるように、場に声を出す」というものは、ある種の行為を発現させるものとして、これに近いだろう。
②は、①が動きそのものを表していたのに対し、身体感覚を促すもの。例えば「ぬかるんだ道を歩くように」といった言葉がけがあるという。「ことばの焚き火」で言えば、対話している状態を「温泉に浸かっている感じ」「海に潜っている感じ」などど表現することが、これに重なりそうだ。
③は、「役になりきれ」や「面白く」といった一種の到達状態を提示することによって「突きつける」ことしかできないことを敢えて言語化したものだという。「ことばの焚き火」では、書いてはいないけれども、思ったことを全て言葉にするわけではなく、何を出すか選択していることついて「場に言わされている感じ」と言うことがある。これも、表現しきれないものを、敢えて言葉にしているから、受け取る人が自分で考えざるを得ない状況を、結果的に生んでいる。
言葉にとらわれることを回避する
「ことばの焚き火」では、「対話のやり方」を特に説明してはいない。「やり方」を書くと、それにとらわれてしまうと思ったからだ。対話は、一回性のものであり、「こうしたらうまくいく」というものがあるわけではない。
「わざ言語」でも宮大工のことばから、「やり方」を教えることの問題について書かれている部分がある。
How to を知ってしまうことで、自分で感じて、考える力が弱くなってしまうのだ。
感覚とことばのつながり
「天から舞い降りてくる雪を受けるように」扇を使うというように、細かく動きを説明するより、比喩的表現の方が、すっと肚落ちすることもある。
自分自身の感覚を捉えたり、鋭敏にするのに、ことばは欠かせないが、逆にそれに縛られる危険性もある。それだけ、感覚とことばというのは密接につながっているのだ。
スピードスケートのメダリストの清水選手にコーチが次のようなことを伝えたという。
コーチは、「自分のために感覚を言葉にする」ことは承認している一方で、他者にわかるように話すことで、うその感覚が言葉にされることの危険性を伝えている。それによって、自分の感覚がずれたり、鈍ったりするわけだ。
自分のことばを一番聞いているのは自分だ。「ことばの焚き火」では、相手に受け取っても、受け取られなくても自分のことばを出す大切さについて書いている。
「ことばの焚き火」は、身体性を持った「ことば」に目を向ける、古くて新しいことばとの関わり方を考える本でもあるから、まさに身体とつながることばを扱う「わざ言語」と共通点を感じられることは、とても嬉しいし、だいぶ刺激を受けた気がする。