もしかして時間泥棒かもしれない。
わたしにとって、通勤時間は気持ちを切り替えるための大事な時間で、わりと長めのほうが嬉しいです。
ちょっと前に辞めた職場は、片道1時間以上かかって、それを辞める理由のひとつにしたわけだけど、ほんとはそれだけは気に入ってました。
そういえば、noteを始めたきっかけは、その通勤時間に必要以上に情報収集をしてしまうのをやめたかったからでした。情報は追えは追うほど憂鬱になったりしますからね。そしてクセになりますからね。
その時間に日記を書こうって思いついて、よかったです。
話それましたが。
コロナがやってきて、奪われたもののひとつに、移動時間があると思う。家で仕事や会議ができるようになったり、みんなで集まって食べたり飲んだりしなくなったり、出かけるってことを極力減らそうとしてる。
わたしにとっては、ライブが配信中心になったので、出かけずに家でライブを観るようになったのがいちばん変わったこと。
同じ空間で、同じ空気を吸って吐いて、みんなでライブを観るのと、それぞれが家で画面越しに観るのと、もちろん全然違う。それとこれは別物。
誰かが、観劇と映画くらい違うと言ってた。その場で聴かない音楽は音楽とは呼べないと言ってた。
その話とは全然違う話だけど、帰り道がなくなった。
ライブの余韻を引きずりながらの帰り道が、ほんとに大事です。わたしにとって。
そもそも、ライブにもエンドロールをつけて欲しい説をずっと唱えてるわたしです。ライブ終わって、パッと明るくなって、さ!帰ろ!なんて気持ちには到底なれない。しばらくじっとしてる。ひどいときには座り込む。よくわかってくれている友達は、あっまた負けてるー!って笑ってくれる。そういうとこ好きよって言ってくれたりする。
だから、帰り道は大事です。
電車乗って、夜中に近い真っ暗な道を、ぽつぽつ歩いて家に帰る。
配信ライブを観るとき。
わたしの好きなアーティストは、画面越しからだって、わしわしと心を揺さぶってくるので、ライブ観に行ったのと同じように、どーんとした気持ちになる。まだ言葉にもできない感情。
家で観てると、その気持ちの落ちつけ方がわからない。ひとりで部屋にいたとしても、なかなかどーん!から戻れない。
だから、時間だけじゃなくてね、その移動が、わたしを落ち着けてくれてたんだなーって気がつきました。
✳︎
さっき、新幹線乗って、帰ってきました。
乗ったばっかりのときは、言いようのない気持ちで、音楽を聴くこともスマホを見ることもなにもできず、ただただ窓の外を眺めてました。
感情がごちゃ混ぜで、急に涙が出てきたり、歯を食いしばってしまったり。
窓の外を見ることにも疲れてしまって、少し目を閉じていたら、起きたまま夢をみてるみたいになった。
新幹線のぞみはとっても速くて、目の前のものはすぐに見えなくなるけど、遠くの山や雲や空はずっとそこにいてくれて、目を開けてもきれいだった。
そうだ。この気持ちを伝えたいひとがいたんだった。って、思い出して、スマホを手にとった。
合理的は悪いことじゃないけど、もっと大事なことは、ムダって呼ばれてることだったりするよね。
「モモ」を読みたくなりました。
わしわし揺さぶられる歌。
もう一度君が目を開けてくれるなら
世界中の花が枯れてもいいや