考えすぎについて
自分は考えすぎの人間なのだと思う。そんなことで逐一つっかかっていたら前に進めないよ、とよく人から言われる。でも考えは勝手に浮かんでぐるぐる回るからどうしようもない。だから何度も同じことを考えないように、言語化して自分の中での考えと答えを固定したいと思ってnoteを始めることにした。いつまで続くかはわからないが、考えたいことはいっぱいあるのでたくさん書けたら嬉しい。
言語化できない悩みに苦しんだ過去の自分を供養するため、書いて固定したいあわよくば誰かに読んでほしいという今の自分の欲求を叶えるため、考えがまとまらなくなった未来の自分に今の自分からの答えを提示するため、これらをこのnoteの目的にする。
自分の考えすぎの背景には、なんでも知りたがる気持ちがあると思う。自分がどうして何を感じているのか、他の人がどんな背景で何を考えているのか知りたいし、言ってしまえば世界のすべてを知りたい。小さな粒子のこととか、大きな宇宙のこととか、ナゲットの形の種類や他の人が歯を磨く順番のような具体的で些細なことから、生きることと死ぬこと、愛すること、善と悪のことなど、抽象的で重大なことまで、全部知りたい。
どうしてそんなに知りたがるのか。それは、知る前と知った後では世界の見え方が変わるから、そして知った後の見え方の方が好きだからだと思う。世の中には知らない方がいいことがあるという考え方もある。例えば飲食店での衛生管理とか。私は飲食店でバイトしたことで、普通のお店では厳しく衛生管理をしていない、というかスピードを要求されるからそんな暇がない、ということを知った。それはもしかしたら知らなかった方がよかったことなのかもしれないが、知らなくて不衛生なものをおいしく食べている状況よりも、不衛生であるかもしれないと思いながら、時間に追われる中頑張って作ってくれた店員さんのことを考えられる状態の方が、私にとっては幸せだ。食べているものは同じハンバーガーなのだが。かなり飛躍するけれど、それと同じで他の人についても、自分が今まで知らなかったことを知れるのは嬉しい。ちょっと思いがけない言動が見えたからといって、それによって拒絶するとか嫌いになるとかはしないようにしたい。今まで知らなかった一面を知れただけで、その人はその人だから。ハンバーガーがハンバーガーであるのと同じで。むしろ自分の中で描いていたその人像をアップデートできるのは喜ばしいことだ。
考えすぎるということは、悪い特性ではないはずだ。小さなことでも知りたくて、考えたくて、世界の解像度をあげたくてやっていることだ。だからこれからもどんどん考えすぎていきたい。ただそれによって苦しい思いをするのは嫌なので、言語化して毎回固定出来たらいいなと思う。話は変わるが、言語以外の方法で表現できる人はすごい。あえて言語化しない人もすごい。言語化して固定するのは、思考の無限ループから抜け出すために私にとって必要なことなのだが、大事な気持ちとか見たもの聞いたものを言葉にすると、実際よりもずれた形で固定されてしまったり、言葉にならない機微がこぼれおちてしまったりする気がして、それに対する葛藤がある。ただ今のところこれしか自分を救う方法がないから、仕方なく言語化する。言葉にすることで、それが未来の自分や今の誰かに届く可能性があるし。
最後に、継続が苦手な自分に縛りを課すため、これから書いていきたいことを列挙する。思いついたら順次書き加える。
スイミーについて、共感について、人の話を聞くことについて、死にたいについて、頑張るということについて、憧れと尊敬、偶像について、信じることと裏切られることについて、デリカシーとリテラシーについて、必要なものと必要ないものについて、好きな詩について、星について、真似をすることについて、など。
これからの自分、頑張って書いてくれ。
こんな長文の自分語りを読んでくれた人がもしいたら、ありがとうございます。もしも何かがあなたに届いたり響いたりしたら、本当にうれしいです。
おわり