ピーターパン ゲンドウくんについて。
どーも、今更ながらシンエヴァの個人的見解を述べていこうと思います。
エヴァンゲリオンってメタファー(物事を置き換えて表現すること)が多いので、そのまま受け取るとなんの事やら?となってしまうと思います。
例えばATフィールド=パーソナルスペースのように...。
そこで、私の考えるエヴァンゲリオンとは何か?を共有しこんな考えもあるんだなーくらいに思ってくれたら幸いです。
先ずはテーマと2つの概念を
お疲れ様です。ここから本題に入りますが…
エヴァンゲリオンはシンジくんと、大人になれないピーターパン症候群の父ゲンドウの家族内抗争を他のものに置き換え規模が大きく描かれてます。
へ?ゲンドウがピーターパン症候群ってどないやねんと思うかもしれないので、如何にゲンドウが大人になれていないかを解説します。
母性にすがりたかったゲンドウ…
碇ゲンドウは息子シンジをネグレクトし、あることに没頭します。
それは初号機の中に肉体ごと取り込まれている碇ユイにもう一度すがるため試行錯誤することです。
綾波レイはその一環で、碇ユイを元に作成されたクローンです。
そしてゲンドウは人類補完計画に傾倒していきます。全生命の肉体をL.C.Lに還し、魂を集約することで、碇ユイと一緒になるという計画です。
ちなみにこの人類補完計画こそ、ピーターパンでいうネバーランドなんじゃねーの?と思ってます。。。
話をピーターパンのゲンドウ君に戻しますが、幼き頃から自分の殻に閉じこもる事が多く、ウォークマンを使い自分のパーソナルスペース(ATフィールド)を保っていた事が語られています。
そんな時に出逢ったのが碇ユイであり、心の拠り所であったのは間違いなく、異性としてよりは母性にすがっていたと感じます。
そしてシンエヴァの劇中ラストでゲンドウが子供の姿になり、自身が作り出したリリスの中に取り残されてしまいます。対してシンジはマリと一緒にリリスの中から脱出します。
この描写は、母性にすがるゲンドウと母から巣立ち自立したシンジとして対照的に描かれていると読み取れます。
エヴァのラストシーンについて
シンエヴァのラストは駅のホームから始まり、シンジとマリのペアで駅から出ていくという展開になります。
向こうのホームに居たのは、綾波レイ(碇ユイ)、渚カヲル(ゲンドウ)、アスカです。
渚カヲルが綾波レイとカップリングになっているのは、前述した父と母の概念とした存在だからです。
そして向こうのホームにいる人間はゲンドウの創作の世界で生きていく。敷いたレールに乗っていく人たちです。
ゲンドウが敷いたレールというのは意味合いが2つあります。
1.アニメ冒頭からシンジを呼び出しエヴァに乗せ、シンジはゲンドウの顔色を伺い右往左往してきました。
2.最終的にシンエヴァでは初号機と13号機の戦いで映画のセットになる場面があります。ゲンドウの創作の中だというメタファーだと考えます。
話は変わりこちらのホームにはシンジとマリがいました。
マリは冬月に「イスカリオテのマリア」と呼ばれていましたね。
イスカリオテのユダであれば、キリストを裏切った人間。つまり裏切り者の象徴です。
冬月、マリ、ゲンドウは昔は研究室の同僚でした。冬月は最後までゲンドウの助力をしていました。
その冬月に裏切り者と言われるという事は、マリは彼らが敷いたレールから外れ、自立した存在であるからではないでしょうか。
その為こちらのホームにいるのでしょうね。
最後はシンジとマリの2人は駅から出ていき自ら歩んでいきました。
繰り返しますが駅から出ていくのはゲンドウの敷いたレールから外れて自らの道を歩んでいくというメタファーではないでしょうか。
さようなら。全てのエヴァンゲリオン
(自立できない大人たち)
監督が作品と決別する意味もあったでしょうが、皮肉った作品だなーと感じたのは僕だけでしょうか?
以上
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?