イギリスの小さな街で起こった事件。未知の猛毒に立ち向かった一人の女性。BBCの再現ドラマ『ソールズベリー・ポイズニング』
※トップの写真:ソールズベリー大聖堂
セルゲイ・スクリパリ氏(66、当時)と娘のユリアさん(33)
2018年3月4日、イギリス南西部ソールズベリー。公園のベンチで壮年の男性と若い女性が倒れているところを発見された。直ちに病院に運ばれたが、意識不明の重体。のちに彼らは、元二重スパイのロシア人男性セルゲイ・スクリパリ氏(66、当時)と娘のユリアさん(33)であり、猛毒の神経剤「ノヴィチョク」にさらされていたことが判明した。その後、英当局はロシア人の容疑者2人を割り出して発表したが、ロシア政府は一切の関与を否定(2人は民間人だと主張)、当人たちは観光客としてソールズベリーを短期に訪れただけと述べた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
BBC制作の再現ドラマ『The Salisbury Poisonings』が素晴らしかった。真相解明モノかと思いきや、ロシア人スパイや容疑者追及に関する記述は一切なく、この危機下において、関係者、当局が被害者をこれ以上増やさない為に、どのような情報に基づいて、どのような判断を下したか(そしてそれがどのような結果をもたらしたか)を描いたヒューマン・ドラマだった。
ウィルトシャー公共保健部監督であったトレイシー・ダズキウィックさんを演じたアン・マリー・ダフ
事件の起こったソールズベリーはイギリス南西部ウィルトシャーにある、大聖堂が有名な静かで小さな街。 ウィルトシャー公共保健部監督であったトレイシー・ダズキウィックさんは地方警察当局より連絡を受け、感染内容と経路について意見を述べ、今後どのような対策を練るかという重要な任務に携わった。しかし、彼女が今まで扱ってきたのは、食中毒や食品由来の感染症などに関するもの。つまり、安全衛生責任者としての仕事しかしたことのない彼女が、猛毒神経剤ノビチョクと向き合い、自分の能力や経験を超えている、と感じながらも責任をもって下した判断が何人もの人の命を救ったという事実のドラマだ。
まずは、スクリパリ父娘が倒れる直前に訪れたイタリアンレストラン「Zizzi」、そしてその後談笑したというパブ「Mills」を完全封鎖して、同時間、後にそこにいた客達を追跡。そして散歩中、小川のカモにパンの餌を与えたとされる小さな橋や声を掛けた地元の人々などにも症状が出ていないかの調査を行った。ノビチョクはいったんモノの表面に付着すると接触によって50年にわたり汚染するという。「 track and trace(トラック・アンド・トレース)=足跡・痕跡による調査」を行い、ソールズベリー街全体を封鎖し、消毒、二人が座っていたベンチは撤去された。
また、ここで重要人物のひとりとされているのが、 ニック・ベイリー刑事巡査部長(38、当時)。最初にセルゲイ・スクリパリ氏の家宅捜査をおこなった人物だ。自宅に入った際にはまだノビチョクの存在は分かっておらず、ノビチョクが付着していたドアノブを回して自宅に入った。その後体調の不良を認識しながらも普段通りに生活を送っていた巡査だが、ある日自宅で倒れ、そのまま集中治療室へ運ばれる。しかし幸運なことに妻と二人の娘は汚染していなかった。ニックさんは、幸いにも回復したが、汚染されたであろう自宅に戻ることはできず、車も没収された。
しかし、その3か月後・・・。
ソールズベリーの町全体の消毒が終わり、事件も収束したかと思われた3か月後の6月30日、同ウィルトシャー、エイムズベリーで再び男女が原因不明の重体となった。病院での検査により、二人はノビチョクに侵されていることが判明したが、前回と違うのは、被害者は一般人、なぜこの二人がノビチョクに接触したのか分からない。事件は再び迷宮入りとなった。この男女は、チャーリー・ロウリーさん(45、当時)とドーン・スタージェスさん(44)。ことの真相は、チャーリーさんが道路端にあるゴミ箱の中に、有名ブランドの香水ボトルを発見。家に持ち帰り、同居していたドーンさんにプレゼントした。それがノビチョクだと知らずに。それを身に着けたドーンさんは意識を失いそのまま病院へ、チャーリーさんも数時間後、道で倒れ病院へ運び込まれた。
その後チャーリーさんは意識が回復したものの、直接肌に着けたドーンさんは症状が重く7月8日に死亡した。ドーンさんは、小さな娘のために、ちょうどアルコール依存症から抜け出そうと努力している最中だった。
今回のドラマはこの2つの事件により、唯一の犠牲者となってしまったドーンさんに捧げるトリビュートだった。
今回の事件は、ウィルトシャー公共保健部監督であったトレイシーさんの忍耐強い追跡調査と早期街封鎖が功をなしたといえる。今でこそ、都市封鎖は、感染を増やさないための最も有効な手段として採用されたが、当時は経済活動への影響と住人の不安を煽る懸念があったことから、得策ではないとされ、トレイシーさんは非難の矢面に立たされた。しかし、彼女は元ソーシャル・ワーカーであったことから、住人の不安に正直に向き合うことができ、また解決方法としては非常に戦術的であったと称賛されている。「真実を自分たちがどのくらい把握しているか」「もし食中毒だったらどのような措置をとるか」「もし上水が汚染されていたら?」。基本に戻っての草の根活動的な調査と早めの決断がどれだけ重要だったかを示した。
ちょうどロックダウン下での放映だったので、防護服を着た警察、調査隊そして、集中治療室を含む病院の様子がコロナ・パンデミックと重なって恐ろしさを増した。
最後に、事件から2年たった現在の状況が当事者本人とその家族登場で語られた。
ウィルトシャー公共保健部監督、トレイシー・ダズキウィックさん:南西イングランド全域の副公共衛生監督に昇進。現在も、夫、息子とともにソールズベリーに住んでいる。
ニック・ベイリー刑事巡査部長:2019年、ソールズベリーマラソンに参加し、自分の命を救ってくれた病院の為の寄付を募った。今も療養中だが、警察の仕事は続けている。
チャーリー・ロウリーさん:兄マシューさんの自宅近くに移り、現在もノビチョク後遺症の治療を受けている。
亡くなったドーン・スタージェスさんの家族:ドーンさんを死に追いやった未公開の情報に関して法的手段をとる準備を始めた。
今回の再現ドラマで重要人物を演じた俳優(上)と実在の人物たち(下)
左より、アン・マリー・ダフ(上)、トレイシー・ダズキウィックさん(下)
マイアナ・バーリング(上)、ドーン・スタージェスさん(下)
ラフェ・スパル(上)、ニック・ベイリー刑事巡査部長(下)
ジョニー・ハリス(上)、チャーリー・ロウリーさん(下)
不運にも唯一の犠牲者となってしまったドーン・スタージェス(1974-2018)さんに追悼の意を捧げたい。
追記:セルゲイ・スクリパリ氏と娘のユリアさんは二人とも回復し、現在はニュージーランドに住んでいるという・