「負けメス犬」になりたくなかった。【収録原稿#168】
今日も、おつかれさまです。スナックまみーのママ、まみーです。
お仕事に、お勉強に、育児に、恋に。
なにひとつ諦めずに、どうにかしたい貴女へ。
まぁまぁ盛りだくさんの試練を乗り越えながら
オンナとしてどうにか咲いてまいりました、私の小話をお届けします。
一度きりの人生、私と一緒に、ひと花、咲かせませんか?
こちらは、各種ポッドキャスト、音声配信アプリでお届けしておりますものの、収録原稿です。
音声ではこちらに少しアドリブが足されていますので、良かったらお好きなチャンネルでお聴きいただけると嬉しいです。
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さぁて
すみません。インパクトありますか?「負けメス犬」なんて言っちゃってます。
私はですね、今日はこれ、今だから言えるというお話になります。
本当に個人的な一例だと思って聞いていただきたいのですが、
ですが、もし、あなたご自身の中に、以前の私とちょっとでも共感する部分がありましたら、もしかすると、何かお役に立てるかもしれない。
そう思いまして、ちょっとお話してみます。
私は、結婚は2回、1回目の結婚を27歳の時にしているわけなのですが、まあ、世間的には飄々と、その時にお付き合いをしていたパートナーと自然な流れみたいな顔をして、結婚をしました。
ですが
その裏側には、本当にどうしても結婚がしたくて
できなければ「負け」だと思っている自分がいました。
今は、結婚している・していないで勝ち負けだという表現はもちろん許されるものではないですし、もとより、その感覚すら時代遅れだと言われています。
そのように言われていたのは、私がその年頃の時も、言われていたことは、そうでした。
でも、時代がいくらそうであっても、勝ち・負け と心で思っていたんです。
なぜか、と言う部分はちょっとこの後掘り下げますが一旦置いておきます。
で、人って、「勝ちたい」とは特に思わなくても、「負けたくない」とは、思いますよね。
ですから、私は勝手に「メスとして負け犬である」状態を定義して
そうならないように、そうなりたくない、と心を囚われて生きていました。
具体的に、どのように負けを定義したかというと
- 30過ぎても結婚や事実婚をしていない、独り身である
- 子供を育ててない状態である
です。
「負け犬」になりたくない、その一心で、26歳を迎える頃から、非常に具体的な納期を提示して、後1年以内にプロポーズしてくれないと別れるよと言うことを告げて、自分のお誕生日にプロポーズをしていただき、そこから華麗なるアレンジメントと外交能力で両家との会食などをセッティングしては好感度を確実に積み重ね
彼が立ち止まったり振り返ったりすることがないよう、この人に決めてよかったんだと安心して入籍や結婚式・披露宴までのプロジェクトを推進していきました。
それで、私は見事に既婚バッジを手に入れ
子供を産み育てたというバッジも手に入れ
その後は、特に望んだことではないですが
バツイチ、シングルマザー、再婚、2人目の子育て、というバッジも
もう、胸元がガッチャガチャするくらい、バッジがついている状態なのですが
さぁ。負けなかった、と言う気持ちに、なったのか。
もちろん答えは、そんな概念ごと、消えて無くなったよ。です。
でもね、それって、40代になったから言えているところはあって。
振り返ると、このようにも思うわけです。
既婚バッジ
子育てバッジ
やっぱりこれを手に入れた時は、最高に嬉しい気持ちになった。
それって、「そのバッジを欲しがる自分」から解放されたから、そういう気持ちでした。
いつまでもいつまでも、結婚がしたくて、子供が欲しくて
でもうまくいかなくて、モヤモヤして
したいのか?欲しくないのかも?そういった内省のようなことをごちゃごちゃ悩んで
自分探し、とか自分迷子、と自虐発言をしてみたり
誰の目を気にしてか、休戦の宣言をしたりですとか
そう言うふうに、自分1人では手に入れることができないもののことを
いつまでも欲しがってグズつくような自分から解放された。
それはね、確かにあったんです。
この感覚は、本当に人として、くだらない、平和だな、と思います。
ただ、くだらないけど、これが本音の本音だったんですよね。
じゃあね、もう一段、掘り下げます。
なんでその「バッジがないと、負け」って、感じていたか。
これも、一般論ではなくて、私の経験談で掘り下げました結果、2つの深層心理がありました。
ひとつ目は、友達付き合いの中で、疎外感を味わったら負け、みたいな相対的なプライドです。
20代はまだまだ狭い交友関係で、中学とか高校とか大学の交友関係をそのまま引っ張っていて
私はそこまで群れをなすような生活をしていなかったものの、それなりに「**ちゃん、彼氏ができたらしいよ」みたいな声がすぐ広がるような群れの中にはいました。
で、当時、自分達の、同類で戯れるような状態のお手本のようなテレビドラマがちょうどありまして、これアメリカのドラマなのですが、セックスアンドザシティ、(SATC)です。これ結構幅広い年齢層の女性には非常に人気のあるドラマだと認識しておりますが、NYを舞台に、女性4人組が恋愛や人生の悩みをああだこうだ共有していくと言うシリーズが非常に流行っていまして、
20代の頃、友達とSATCを観ながら、私は登場人物の中なら誰のような人生がいい、でもあなた誰みたいじゃない、と言うことで話題になったり
4人いましたよね
- コラムニストとして恋愛とファッション中心の生活を送り、実業家とくっついたり離れたりして結婚を果たすキャリー
- ビジネスでの成功と女性としてセクシュアルな日々を送り、家庭は一切持たない、と言うサマンサ
- 優秀な弁護士をする側で、地味な結婚をして育児や家族の問題に奮闘するミランダ
- お嬢様を突き通して完璧な理想を掲げて結婚2回目で養子を迎えて、と言うシャーロット
いずれも、なんだかんだ幸せに向かって貪欲で、そしてそんな女友達がかけがえのない友情を築く、と言うところが理想的、みたいなストーリーなので、その作品は非常に美しくシリーズが終わって、
ああでもまた最近続編が出てきましたね。見ないと、って感じなんですが、
ただ、そのSATCのように、多様な人生模様を互いにリスペクトしてバランス良く仲良くできるかといえば、実際はそうはならなくて、誰かが疎外感を持ち居心地が悪くなって、だんだん別の自分と似たタイプのグループと付き合うようになる、と言うね、そう言う状況が割と現実かと思います。
ですので、20代はそうやって、一緒にいて楽しい10代の延長で付き合っていた友達の中で、疎外感を持つことを「負け」って、思うようになりました。
そんな心理が、私の心を焦らせていたひとつ目。
そして次に、これはもう育ってきた過程で培われた根深いものだと思うのですが、
女性に生まれた、そして性の対象も、私は男性のみと言うわけではないですが男性も含まれる。
そうしますと、
「女の子は、愛されてナンボ、愛されて花咲くものですよ。」ですとか
「メスの体は、子供を産むために子宮や卵巣がついていて、命をそこに授かってお母さんになることが自然ですよ。」
と言う、「普通目指すよね」「それが幸せだよね」っていう刷り込みが、生まれてからの過程で、そして社会の中でもいろんなところで違和感なく響いて、私の価値観を作ってきました。
この価値観は、否定するものでもないと思いますが、もはや「自分の感覚かはわからない」と言う状態になっている人が多いのではないでしょうか。
幼少期から、親にも教育機関にも「パートナーがいなくても、1人でも人生は幸せだよ。」「赤ちゃんはいなくても、お母さんにならなくても、幸せだよ。」なんて、わざわざ教えられてそちらが優位に刷り込まれることは、稀だと思います。
ですから、なんとなくそうやって、それが女性として生まれたコンプリート状態なんだな、みたいな感覚を持って
それができなかったら「負け」と言う観念が芽生えたと思います。
私はこのように、女として、メスとして、負けたくない、、、「負けメス犬になりたくない」という気持ちで
結婚して、子供を持って、バッジを手に入れた。
手に入れたのですが、「負け」からは解放されたか?
確かに、それまで持っていた「負けたくない」不安な自分からは解放されて
とても嬉しい気持ちにはなりました。
でも、幸せですか?と聞かれたら即答はできない。
そういう感じが続きました。
幸せに関しては、40歳の今、ようやく、「幸せですか?」と聞かれて「はい、幸せです。」
と答えられるようになりましたが
ずっとこれまでそこに答えられずに、仕事やら趣味やらいろんなことに手を出して自分を満たそうとして参りました。
で、既婚者や、子育てのバッジを持たない「負け」
からは解放された当初の話に戻りますと
今度は「オンナとしての市場価値が下がった」「現役ではない」
という、市場価値って?笑
という感じなのですが、そのような、新しい定義づけでの「負け」と闘うことになりました。
結婚しても、出産しても、仕事を頑張り続け
流行りのファッションを心得て
敢えて子育てでは避けるような白い服を着たり
体型がわかるようなピチッとしたパンツを履いたり
セミロングの髪を毎日コテで巻いて、巻き髪風にしていたり
職場では、「まるで、子供などいないように」
周りの、働きママたちは、子供の写真を飾ったり、PCの背景にしたりするものなど、いっさいせず。
「お子さんいたんですね!?」なんていう言葉を称賛のように受け取っていました。
「お母さんっぽい」と言われることが「負け」だったんですよね。
・・・・本当に、、キリがないのですよね〜〜。「負け」。
40歳になった今は、気づけばこのような話を語っちゃうくらいの状態になったということなのですが
なぜ、私が「負け」を意識しないようになれたかと考えるとそれは偶然でもありますが
「自分のことに忙しくなりすぎて、同世代の生き方と比べる時間がなくなった」からだと振り返っています。
そして、「負け」の意識から解放されて、改めて落ち着いて、俯瞰して物事を見渡せば
そもそも、勝ち負けとは、相対的なものの見方をしている言葉であり
人の一生は相対的に感じるものではなく
相対的に自分の人生を眺めているうちは、何をどう手にいれたところで全て欲が満たされて不安もなくハッピーである、とはならないものです。
と、まあ、教科書に書いてあるような話ですけどね。
でも改めて、それをしみじみと感じるようになりました。
結婚するしない、子育てするしないという別れ道それぞれをとっても
そのどちらの場合に見える景色それそのものが、イコール万人に共通する幸せ、と直結するものではなくて。
私が好きな考え方の一つに、人生は「選んだ道を正解にする」
という考えがあります。
結局は、人生は、選ばなかった方をその先を知ることはできないのですから一歩一歩、それなりにその時の自分を大事に歩いてきて
それで結果的に進んだ道の景色を、一分一秒でも輝かしい、愉しいものにする、これに尽きる、と思います。
道は決して平坦ではないですから、石も落ちていると思います。
石が落ちていてそれを不安に思うなら蹴飛ばしたり別の道に入って回避する方法もあれば、石の上に乗ってぐらつくことを愉しむこともできます。
いろんな選択肢があります。そして、そこで大事なのは、あなたはどういう状態が好きでどういう状態が嫌いか、ということであって
その心を突き詰めれば、相対的な視点には、解決できないはずです。
私は、そこに気づくのにだいぶ時間がかかったかもしれません。
この、「相対的なものの見方」「それによる感情」を手放すことは
例えばお仕事とか、例えばお金稼ぎとか、そういったことに関しても同様に、何か、疲れちゃったという方には、とてもお薦めです。
全部、排除することは物理的な世界に生きる限りは、不可能ですけどね。
そんな極論は、言ってませんからね。
そして、手放す方法としては、同世代・同種類のお友達付き合いは思い切って一回、休止して、距離を置いてしまうことが、私は、効果的でした。
と、いうことで・・・
今日はとても自然に最後のPRに繋がっちゃいますけれども
そんな、今のお友達づきあいで、相対的な感覚に疲れちゃてるかもというあなたにもお薦めな、気楽なオープンチャット
「やさしい開花サロン」は、年齢・性別など、資格や制限は何もありません。
多様な価値観を持つ大人のメンバーで、それぞれがご自身をお花として「開花」して生きていきたい
ご自身が、どういう人になりたいか、どのように咲いていきたいか、それを貪欲に追いかけていくことを補い合っていくような、大人の交流です。
ピンときた方は、ぜひご参加くださいね。お待ちしています。
ではまた、お耳にかかるまで
お元気で、おだやかに
お過ごしくださいね。
ごきげんよう〜
オープンチャット「やさしい開花サロン」
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