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訪問介護の魅力発信25/01/10 リアルな話、私の実話。

2000年に介護福祉士をとって訪問介護ヘルパー(以下ヘルパー)の仕事を始めた。コムスンが一斉を風靡したあの介護元年。

私がヘルパーになった理由は少し悲しい。だから思い出したくないので書かない。45歳になった時に決めたこと。もう人生を愚痴らない。ただ、20歳でヘルパー1年生だった私は何もかもに納得できていなかった。早朝から23時まで依頼がある限り働いた。そうすることで誰かが何かに気づいてくれるかもしれないと思っていた。ローマの休日のその後を考えることが好きだった。きっと新聞記者とお姫様は再会する。ディズニーのラストみたいになる。現実ではそうならないが。

私の悲しみと頑張りは身体の中でもバラバラで統一されておらず、いつも不満を抱えていた。ある日、利用者の娘さんがこう言った。
「マミさんて、もしかして自分は本当はこんな仕事するような人間じゃないって思ってない?」
「世の中って自分が思うより公平よ。あなたがやっていること、それがあなたへの世間の評価で、ほとんどの場合それは正しいのよ。こんなもんじゃないって思っている限りあなたはこのまま。この仕事しかないって思って誰よりも努力しなさいよ。必ず次が開けるから。」
帰り道、泣いた。傷ついた。私は老人のオムツ交換ばかりやって生きるのが相応な人間なのか。そうだとしたら人生は刑罰だ。辛い、でも他に仕事なんてない。誰も何も教えてくれなかった。20歳だった。

次の日から私は変わった。そうか、私は老人のオムツ交換ばっかりやって、うんこを投げられたり、尿だまりを踏んだりして生きることが相応の人間だったんだ。そう思ったら、全てのものが突然に輝いた。ケミカルブラザーズをよく聞いていた。高円寺の高架下を目をつぶったまま自転車ぶっ飛ばして早朝ケアに向かった。何かにぶつかって死ぬかと思ったけど何も起きなかった。アンダーワールドが流行った。六本木のクラブで遊んだ。つまらなかった。この苦しみから逃れるためになんでもやりたかった。

訪問介護の仕事に打ち込んだ。180センチ80キロ以上ある利用者さんのほぼ全介助入浴、車椅子移動。暴力的な方のケア。彼氏もいないのにセクハラ発言を受け続けた。世の中にはまだコンプライアンスなんてなかった。困難ケアほど率先して引き受けた。穏やかでホッとするようなケアもあった。コタツに一緒に入って時間まで笑っていいともをみたり。公園の外出介助は気楽だった。ある日、オムツ交換をした後に利用者さんの奥さんが言った
「あなたはキレイよ。あなたの手はキレイよ。キレイなんだからね。」
やっぱりまた泣いてしまった。

別の利用者さんの一言は人生を変えた。
「あなたは美人じゃないけど、人に好かれる顔をしている。特に金持ちには好かれる顔だよ。だから、きっと成功する。」
後に、その一言を信じて私は富裕層向けの家事サービスをフリーランスで始める。

ある日、私はもう苦しんでいなかった。
六本木にクラブイエローはなくなっていた。
しばらくして渋谷コンタクトがなくなった。

あれから25年(きみまろ風に)。訪問介護ヘルパーを週に2日ほど続けている。収入の問題ではない。稼ぎの良い旦那さんと暮らしていた時でさえ私はヘルパーを辞めなかった。私にとってヘルパーの仕事は痛み止めだ。

いや、こんなはずじゃなかった。もっとキラキラした訪問介護の魅力を書きたいのだった。それは、これから書いていく。

2025年1月10日 渋谷の家政婦マミ
Instagram:@mami_okmamimami




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