「古いジェンダー観」という落とし穴に知らずと落ちている
わたしは若い頃、「女の子らしくない」と言われることが多かった。
大学は女子の少ない学部だったし、総合職で働くこと以外は考えられなかったし、終電後にタクシーで帰ることもいとわなかった。
年上だろうが年下だろうが、男だろうが女だろうが、主張が論理的でなければ異を唱えた。
それでも、とても自然に考えていたのだ。「いつかは結婚して、優しい妻になる。」
男女で言葉遣いの違う国
タイでは丁寧な言葉遣いにするとき、語尾に「カー」もしくは「クラップ」をつける。
例えば、「こんにちは」を意味する「サワッディー」。「サワッディー カー/クラップ」というと、より丁寧な表現になる。
カー/クラップの使い分けは、明確だ。女性が「カー」で男性が「クラップ」。最近はジェンダーレスの観点で好きな方を使えるようになったらしいが、ニューハーフの方をのぞいて、男性が「カー」、女性を「クラップ」と言っているところを聞いたことがない。
だから、わたしは娘には「コップンカー(ありがとう)よ」、息子には「コップンクラップよ」とそれぞれ教えている。そういう自分をはたから見て、不思議だなぁと感じる。
来泰当初、この「カー/クラップ」の使い分けにものすごく違和感があった。男も女も関係ない時代に、なぜ、と。
よくよく考えてみれば日本語も、一人称の私・僕・俺・わし、から始まり、語尾の処理も「だろ」「よね」等、男女でごく自然に使い分けられている。刷り込みとはこわいものだ。
女ひとりでも生きていけるように
先日、中島みゆき特集をNHKで見た。
わたしは両親の影響で、中島みゆきを中学生のころから聴いていた。
そうして、中学時代の純粋な少女だった頃のわたしを思い出した。
中島みゆきの「ファイト!」という歌がある。
この歌を初めて聞いたとき、わたしは胸の扉を鈍器でたたかれたような気がした。知らない世界が開いたのだ。
時は、平成中期。今から20年も前の話だが、それでも少女は「なぜ!!!」という感想を抱いた。
中卒が悔しいなら、働いて高校卒業すればいいじゃん。
そんなクソ田舎なんてこっちから願い下げだ、身内全員ひっぱって、東京に越してきてしまえばいいのに。
男の思うままになんて絶対にならない。
わたしの胸は壮烈に燃えたぎっていた。ありえない。昔の人は、かわいそうだなぁ。
わたしはそうはならないぞ。女一人でも生きていけるようにするんだ。誰の手も借りないし、誰にも依存しない。自分の人生は自分で決める。
小児加害者が言う、「自分のことを脅かさない」存在
『子どもへの性加害 性的グルーミングとは何か』(著:斉藤 章佳)という本を読んだ。
子どもへの性加害ときくと、見知らぬおじさんが甘い言葉で手招きしているイメージがわくが、実際はそういった「THE 不審者」ではなく「信頼できる優しいお兄さん」による犯行が多いという。
この「優しいお兄さん」を演じるのに「性的グルーミング」= 性的懐柔、すなわち、性的な目的を達成するために信頼関係を築き、ターゲットを手懐けるのだ。
彼らは「小児性愛者」なのか。これは性欲の問題なのか。
その疑問を、男児の被害者数というデータという観点で読み解いていく。
意外なことに、被害児童のうち14%は男児だという(2022年)。狙われるのは小1~3といった低学年だ。
男児を狙った加害者全員に同性愛傾向がある訳ではない。
ではなぜ男児をというと、この年次では、①女子と男子の体つきがそんなに違わないこと、②男児の方が性加害に対する警戒心が薄いことから、女児の代わりとして手を出すのだという。
著者のクリニックに通う加害者の半数以上は、いじめられた経験を持つ。加害者の心の安定、支配欲を、抵抗できないものへの加害で発散する。
つまり、彼らは必ずしも、小児性愛という性的志向から小児加害を行うのではない。
「自分のことを受け入れてくれる」と考えたのが、子どもという存在なだけ。卑怯にも、そういった「弱き者」を巧妙に懐柔していくのだ。
男尊女卑はわたしの中にもあった
ここで著者は、「なぜ、脅かされていると彼らが感じるのか」について、その正体は「男性は女性よりも優れてなくてはいけない」と言う男尊女卑の価値観だと突き止める。
それに気づいたきっかけは、2019年の上野千鶴子先生による東大入学者への祝辞だった。
当時、わたしもまた、この祝辞に衝撃を受けたひとりであった。
そして、母親業も板についた今、過去の自分を客観視できるようになってからこの祝辞を改めて読むと、新しい事実に気が付いた。
わたしは確かに自分の能力を過小評価しない学生だった。だから学生時代からの付き合いである夫にも、わたしの成績の良さや、論理立てて話ができることを隠さなかった。彼はそれを認めてくれた。
それでも学生時代のわたしは願った、「かわいく思われたい」。「愛される、選ばれる」存在でありたい、と。
背景には、どうふるまったら「かわいい」と思われるのか、常に勉強し実践していた平成時代の女性の影があった。
なぜそれほどまでに、女性はかわいく思われたかったのか。「ファイト!」の歌詞に憤慨し、「女の子らしくない」という評価に陶酔していたわたしが、一方で、「かわいくあるべき」と妄信していたのか。
それは、わたしの中に「男性から『かわいい』と思ってもらえないと、選ばれない」という価値観があったからだ。能力や、懐の深さ、やさしさ、そんな、人間として素晴らしい素質を持っていても、かわいげがなければ、男性からは相手にされないと思っていたからに違いない。
わたしは愕然とした。「かわいくないと、他の部分がどんなに優秀でも、パートナーに選ばれない」というのも男尊女卑の価値観であると、はじめて知ったからだ。
男尊女卑は、女性にもある。女性が自ら、自分を貶めてしまう。それはわたしのせいではなくて、社会が、環境が、ごく自然に、そうさせたのだ。それに今まで気づけなかったなんて。
ジェンダーの落とし穴を見つける
とりとめもない着想全開の日記になってしまったが、中島みゆきも小児性加害も「男尊女卑」の価値観でつながった。
この世にはあちこちにジェンダーの落とし穴があり、知らず知らずにはまっている。ことさらに女性らしさを強調することをしなかったわたしさえ、その穴に落ちていたのだ。
これから子どもたちは、新しい時代を生きていく。彼らには「男だから仕事をがんばらなきゃ」とか「女だからかわいくあらねば」とか、そんなことを考えずに、自分の声を聞いて、自分らしく生きていく未来がある。
その未来のためにわたしは、日常にあるジェンダーの落とし穴を見つけることからはじめたい。