わたしの選択。家族みんなで一緒にいる。
「この選択をして良かった」と言えるひとはいいな、と思う。
人生には3つの坂があるという。「上がり坂」「下り坂」、そして「まさか」だ。
わたしの人生は、おおむね上がり坂だった。
生来のポジティブ思考で「下り坂」を忘れているだけなんだけれど、人生万事塞翁が馬、為せば成る、そんな気持ちで生きてきたし、たとえ下り坂の入り口が見えたとて、「わたしなら大丈夫!」という、これまたポジティブ思考で凌いできたからだ。
そんなわたしにも、最初の「まさか」が訪れた。大学の同級生を好きになるという、とても平凡な「まさか」だった。
わたしは、彼のようなタイプを好きになると思わなかった。
🔽「彼のようなタイプ」とはこんなタイプ
好きになって良かった、と言えるほど、能動的に「自分で選択した」と言えるのかわからない(だから「まさか」なんだろうけど。)
わたしは恋にとても慎重なタイプだったので、何度も「これは恋なのか?」を吟味した。
(その当時のジャーナリングノートが今も残っている。見つかったら恥ずかしいから死ぬまで一緒に連れまわそうと、引っ越しのたびに持ってきている)
ノートにはこう書かれている。
好きになるということを自分で選択したと仮定すると、彼に好きな部分があって、そこが明瞭に好きでないと説明がつかない。
もしそこを明示的に証明できなければ、わたしは「彼」が好きなのではなく、「彼を隠れ蓑にした恋、もしくは恋する自分」が好きなのではないか。だとしたら、彼に非常に失礼ではないか。
そんなことをずっとずーーーーっと考えていた気がする。
そんな葛藤を経て、それでもわたしは彼と一緒にいるという選択をした。
そして子供を2人産んで、ワーママになった。この期間は上がり坂も下り坂も両方経験して、ようやっと慣れてきた矢先、第二の「まさか」があらわれた。
夫の海外転勤だ。
わたしは、仕事を続けるか辞めるか、二者択一を迫られた。
それで、後者を選んだ。仕事を辞めたのだ。
この選択は、良かったことなのか?
わたしはもっと、なにか違う道を選べたのではないか?
いや、そもそも、もっとキャリアを積んでおけば、もっと子どもを産むのを遅くしておけば、一人だけにしておけば、……わたしのキャリアも大事にしてくれる、そのために自分のキャリアを多少犠牲にしてもかまわないと言ってくれる男性と結婚しておけば。
noteの企画で「自分で選んでよかったこと」というお題が発表されたとき、わたしは立ち止まって考えてしまった。
選択して良かったこと? それって、なに。
胸を張ってそう言えるのっていいな、と思う。
どうしてわたしには、それができないんだろ。「これを選んで良かった!」と宣言したい、だってかっこいいじゃん。でも、もう一人の自分が「でもさ、別の選択をしていたらこういう未来もあったんじゃない?」とか、「良い面ばかりじゃないくせに」とか、邪魔をしてくる。
その声を聞くと、どうしても躊躇してしまう。選択して良かったと言い切れること、わたしにはあるのだろうか?
アメリカの作家、ウィリアム・フォークナーは言った。
そうだ、「いま」は連綿と続く選択の途上にある。だからその選択が「良かった、満足だ」と言えるものなのか、まだわからない。
まだわからない、ということは、わたしは現状を「良いもの」という評価をしていないことになる。
わたしの大好きなルシア・ベルリンは、「『あのもしも』も、『このもしも』も考えてもせんないことだ」というような旨を小説のなかで述べていた。でも、考えてしまう。もっと仕事がしたかった。何にも邪魔されずに熱中したかった。
いや、そんな昔のことを言い出したって仕方がなくて、そう、もっと小さな……「仕事を続けていれば」、どうなってたのかな。いまよりも、良かったのかな。
🔽同じようなこと考えてる
じゃあなんで、そんなに大切だった仕事を手放したの?
それはひとえに、わたしが、「家族だから、一緒にいる」を重視したから。
さみしがりやの夫。パパが大好きな子どもたち。彼らは半年の「単身赴任」という名の別居生活を経て、いま、平常を取り戻している。
二人の子どもは、「今日はパパ早く帰ってくるかな?」と話し合っている。夫が早く帰ると「パパだ!!!!!」と目を輝かせて夫の足元にまとわりつく。
休日は、夫がいない日も多いけど、彼がいるときは目いっぱいあそぶ。アパートのプールで遊んだり、スシローでたらふくお寿司を食べたり。そして、トゥクトゥクで帰路に就く。バンコクの風を一身に受け、「きもちいいねー!」と感触を分かち合う。
そういった一瞬一瞬を「いま」と呼ぶなら、「いま」、これだけは言える。家族全員で一緒にいることを選んで、本当に良かった。
この、「家族でいることを選んでよかった」というのは、「家族がいる未来を選んでよかった」というのとちょっと違う。
前者は「いま」で、後者は「結果」だから。
「家族がいる未来」を構成するのは、夫との結婚、二度の出産という選択だ。そして「家族がいる未来」という現状は、単なる選択の結果にしか過ぎない。
そして、結果だけを見て「これで良かった」というのも、なんとなくずるいと感じてしまう。現実の方が良いと思い込もうとする、目くらましを悦んで受け入れているような気がして。
では、何に対する「目くらまし」なのか。
「結果」はどうしたって「計画」と対になる。計画した通りに行動したことが結果であり、結果の先にまた計画がある。「結果」には、おわりがない。だからわたしたちは常に計画、つまり将来のことを考えなければならない。
将来を考えるとき、ひとは必ずリスクを算定し選択をする。「この選択をしてよかったのかな」という迷いは、そのリスクを引き受ける痛みなのだ。
「目くらまし」の正体は、これだ。結果を見て良しと判断することは、過去のわたしが、そして今のわたしが受けている痛みを正当化しようとしているだけなのではないか。
翻って、「いま」には結果も計画もない。過去も未来もない。
いまこの瞬間、わたしは、家族全員でいることを心地よいと感じている。そこには「わたしの将来はどうなるのだろうか」という未来が挟み入る隙がない。
第一、「わたしの将来」? そんなもの、考えるだけ無駄だ。すべきことをする。計画して、結果を出す。いつも通り、それだけ。
そんな「結果と計画」の不安に飲み込まれるより、「いま」に集中してみよう。
家族で一緒にいること、わたしの愛する人々が愛する人々を愛していること、その輪のなかで五感を共有できることが、たまらなくうれしい。
わたしには、たくさんの選択肢があった。そのどれもが魅力的だった。わたしは迷いながらひとつひとつ吟味し、最善を選んできたつもりだ。
もしかしたら、「結果と計画」の観点では、わたしは仕事を辞めずに日本でがんばるべきだったのかもしれない。それでも、この選択をして良かったと思ってしまう。
現在バイアスだとか、将来性がないとか、常に自分から発せられる批判、痛みは甘んじて受け入れるけど、そもそも「いま」という概念にはそんなもの通じない。
そんな、「結果と計画」という資本主義の論理から初めて離れて過ごす、この夏の午後。