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会社を辞めると知って声を掛けてくれた人たち

会社を辞める、引っ越しをすると聞いて声をかけてくれるひとは、3種類に分類できる。

ひとつめは、ただの退屈しのぎなだけのひと。

うすら笑いの裏で隠しきれぬ好奇心をむくむくとさせて、「次、どうするの?」と聞いてくる。

こういう人は、わたしのことをただのコンテンツだと思っている。つまらない会社生活のスパイスのひとつ。噂になるだけだし、そもそも消費されるのはまっぴらごめんだから、わたしは全ての人に、退職の事実と共にその理由を告げた。

こういう人とは、会うことはもう2度とない。


ふたつめは、わたし自身に興味を持ってくれるひと。

今まで機会がなく言い出せなかったが、一緒にランチにいかないかと、何人もの方にお声がけいただいた。大変ありがたく、嬉しいことだ。わたしはできる限り、人に会った。

そこでわたしもまた、知らない価値観に触れた。このフェーズの人は、実はあまりお互いをよく知らない。だから、お互いに、「こういう考えのひとがいるんだ!」という発見があって、話が弾むし、とても楽しい。

幸いなことに、X(旧Twitter)で知り合って、相互フォローしている方にも何人かお会いした。みなさんとても可愛く、誠実で、真面目に生きていて、一瞬でより一層好きになった。

わたしのポストやnoteを読んでくださっているので、自分の手のひらがすべて透けている状態で、「こんなこと言ってたよね」と覚えて話に出してくれるのが、とても嬉しく、同時に気恥ずかしかった。

旧友だって、こんなあけすけに話をしていない訳だからして、これを読んでいる方とリアルに会うのは相当に恥ずかしい。

何が恥ずかしいかというと、現実を生きるわたしは自分のことを多く語らず、楽しい話ばかりをする性格なのだ。良いように形容させていただくと、非常にシャイなのだ。。。


だから、わたしの内面をよく知っている人と話すのは初めての感覚で、恥ずかしかったけど、楽しかった。
声を掛けてくれてありがとうと、この場をお借りしても申し上げたい。そして、大人になってからネットで知り合う友人もいいものだなァ、と思う。


さて、最後に、みっつめは、大変ありがたいことに、わたしのことを愛してくれているひと。会えなくなるのを純粋に残念がってくれる人たち。家族や、昔からの友人だ。

わたしには、「この人たちは紛れもなく、自信をもって親友だと言える」友人が4人いる。同じ大学のサークル仲間だ(ちなみに、夫も同じサークルだった)。


親友たちは、わたしの送別会を開いてくれた。独身の子、子どものいない子、子どもを持つ子、環境はそれぞれだ。にもかかわらず、卒業後、人生が分かれていってもこうして会ってくれるのを、大変ありがたく思う。


送別会はすごく楽しかった。食事後にお茶までした。子のお迎えのため夕方解散なのが残念なくらい。駅の改札前まできたところで、友人のひとりが何気なく呟く。


「この前、高咲(夫)の送別会を開くの忘れちゃったね、ってA(同期)と話してたんだよ。急だったし、私たち、『高咲がタイ行きということは、まみちゃんもタイ行き!?』って、頭がいっぱいになっちゃって。とにかくまみちゃんの送別会を開かねば、と、それだけになっちゃってさ〜笑」


本当に、何気ない呟きだった。友人は、夫へのイジリのつもりだったろう。でもわたしは、とても嬉しかった。わたしの居場所ってこういうこと、と思った。


夫の駐在が決まってから、常に夫は人生の主人公で、わたしは脇役だった。奥さん、一緒に帯同してくれるの? ご主人の転勤、大変ですね。義実家だって、夫のことばかり。わたしはいつも置物だった。隣でニコニコしているだけの。


でも、わたしにもストーリーがあるんだ。夫と同じ大学に通い、独身時代は力一杯働いて、2人の子を産み、ワーキングマザーとして過ごした。わたしにも誇りと苦労があるのだ。それを労ってくれた人が、どれほどいたか? 実の両親。夫。でも、まだいた。まだ誰の関連物でもなかった頃のわたしを好いてくれた親友たち。夫の駐在の話を聞いて、「まみちゃんの送別会をしなきゃ」と真っ先にわたしを思い浮かべてくれた人たち。


ああ、わたしは、この先どうカテゴライズされても、この人たちの前では、絶対に「わたし」でいられるんだ。

わたしに興味を持ってくれ、わたしの幸せを願ってくれるのが、どれほど幸福なことか。この人たちの前では、わたしは肩肘を張らなくていい。この人たちが労ってくれたら、わたしは声を大にしてSNSで不幸を披露しなくて済む。そんな人が自分の周りにいるんだと知れたのは、東京で育ち、これからもこの地を離れまいと考えていたわたしに突如降った帯同話のおかげだろう。


いま、わたしはバンコクにいる。でも、さみしくない。友人から贈られた、食事会の最後に撮影した写真が封入された、かわいらしい写真立てが、新しい我が家に飾られている。写真の中のわたしは、はにかんでいる。すごく嬉しそうで、改めて見るのが恥ずかしい。

でもわたしは、その写真立てを見える位置に飾る。夫の帯同でこの地を訪れた、究極の「ただの関連物」である駐妻のわたしの居場所は、この写真立ての中にある。

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