11月19日 グノーシス主義、グノーシス思想のPOINT.
今朝の体重65.7kg、体脂肪10.7%。
体重は増え気味であるが、体脂肪率はまあまあではある。特になにかを行ったわけではないが、留守宅の庭の草むしりはやった。
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さて、最近のマイブームは”グノーシス主義”である。この欄でも何度も言及しているが、この主義の主なPOINTは、マドレーヌ・スコピロ女史の簡潔で分かりやすい本、”グノーシスとは何か”によると、こうだ。
グノーシスとはなにか (serica books)
私は話をグノーシス思想における人間の道程の二つの局面、すなわち「この世における滞在」と「神への帰還」に絞り、(後略)
P.89 グノーシスとは何か マドレーヌ・スコペロ
この世における滞在。滞在とはつまり、”本来いる場所から仮で住まうこと”である。
人はつまりその中に「神の光」というべきものを持ち、その光の導きにより「神へ帰還」するのである。
これがグノーシス思想のpointであろう。
だが、それはすべての人ではなく、選ばれたものだけ、ということなのである。
この世は「闇の火」「光の模倣」であふれているが、この火はまやかしであり、人々に”事実という幻想を与える”とする。
つまり、”事実はまやかし”というのである。
そして”模倣された”光で彩られる”事実”の”暗黒の甘美さ”の虜に、われわれはなっている、というのである。
この本質的に”この世はまやかしであり、悪である”という思想は、私のなかではあまり出会わなかった思想である。
いろいろあるが、なんとかたまたま奇跡のように”生まれ”、過ごしているこの”生”を、寿ぎ大切にしよう、というのがまあ基本の生きるあるべき態度なのかな、と思ってきた。
それを結構根本から揺さぶるインパクトを、この思想は持っている、と思うのだ。
まあ、この思想を知って、その主義に染まっている、というわけではないのであるが、そもそも宗教とはすべての人が持つ「死への恐怖」、「自らはどこからか来たのであろうか、死すればどこかへ”行く”のであろうか」、という、生きていては決してしることのかなわぬ問いへの、ある意味「方便」であり、”信じる”=そういうことにしておいて思考停止する、というものだろう、と個人的には思っている。
このあたり、わが魂の導師ともいうべき池田晶子さんは、死後の世界がわかった、という立花隆さんを”おっちょこちょい”と評し(決して貶めるような口調ではなかったが)、死は死なないとわからない、という当たり前だが結構みんな納得したくなくてもぞもぞしているところを明快に喝破してくださっている。
上記の”信じる”に対しても懐疑的で、信じることより考えろ!とおっしゃったと認識している。
その”喝破”に痺れて、こうして今も”いち池田ファン”を、やっているわけである。
まあ、こうした本質的問いに関連して、”ファン”というちょっと浮ついた心理であるのも変だとは思いつつ、
やっぱり”ファン”という感じなのはなぜなのだろうか。
(この世が悪、と言い切ることの激しさを思うと、この思想がある立場からは異端であり危険思想である、とみなされたのもわかる気がします。ですがそのことで火あぶり死刑となってきたことを、今の時代から見ると、その当時の”宗教”というものの存在の大きさを感じます)