10月26日 ”言霊”とは、自ら発した言葉が集合的無意識的なものに作用することを言っているのではないかな。と思ったこと。
昨日は飲み会。ヘパリーゼをボトル買いで飲み会の度飲んでいたが、飲み切ってしまい、ボトルは結構高価なので、割高ではあるがコンビニで2個入りを150円位で買って飲んで参戦した。
そしてプロテイン20gを飲んで、食欲を抑制しようとしたが、結局帰りに松屋で特盛牛丼720円を食べてしまった。
まあ、牛丼は添加物等からいくとまあまあいいと思っているのと、タンパク質摂取にもなる。白米も普段玄米なので、たまにはいいだろう。
飲み会では飲み放題に”第3のビール”さえなく(コストダウンか)、ハイボールを6杯くらい飲んだ感じだ。薄めであったが、1杯20gくらいとすれば計アルコールは120g、6日分位を飲んだかんじだろうか。
最近はあまり家で飲まないので、今週はなるべく抑えるようにしよう。
体重は64.8kg位、体脂肪は10.8%位であった気がする(うろ覚え)。
昨日は63.5キロくらいだったので、1キロちょっとの増加である。
タイトル回収だが、いわゆる言霊、というものが実感される、ということが、いろいろな経験のあとで起きた。
これはまあ、言葉自身に意識があるといったようなものでもなく、結果としてのことではないか、ということを歩きながら思ったのだ。
人は自分が口に出したものを、自らが聴取するという機能を使って聞いている。だが”自分が言っている”ということが当たり前すぎて、わざわざ自分は聞いてもいるのだ、ということをあまり意識しないだろう。
だがしゃべることと、聞くことは別のことだ。
聞くことで、しらず自らの/魂の、比喩的な”アカシア年代記”にそのことが記録されている、ということもできるかもしれない。
いや、アカシア年代記なんでそもそもなんのこっちゃ、ですよね。
まあ、それがあるのかないのかということはさておいても、それが”集合的無意識”、脈々と続く遺伝子的記憶体系、みたいな仮定をするのならば、それはもしかして、と思う部分もあるわけだ。
まあ、特に宗教的な意味で言っているのではない。
感覚の世界だろうか。
だが、仮にすべてのものが記憶されゆくのがこの世界だとすれば(そもそも世界の時間や、始まりと終わりがあるのか、という部分をどう考えるのかだが)そこに内容の貴賎や貴重意味なしを超えて残ってゆく、
というのがすなわち”コトダマ”の意味かもしれない、と
そういうことを思ったのでした。。
(妄言に近いですが、まあ、個人の日記なのでご容赦。。。)
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。