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12月8日 神と時間。【いつもの妄語】

芸術は 神の模倣

ルネ・ジラール


時間は 永遠の似像である

プラトン ティマイオス(29E)


神、が別に人格神ではなくとも、仮に無から有が作り出された、という事象があるとしたら、
その作用のことを”神の手によるもの”と設定することができるだろう。

それがを”男性のひげの年配おやじ”や、”太母のような女神”によりなされた、としたとしても、そのほうが大衆に伝わりやすい、というようなことであれば”そういうこと”にしておいてもいいだろう。

だが実際はそういうひげおやじや太った女神はいるわけではない。あくまで象徴、仕組みを例として示したもの、というところになるのではないだろうか。

だがまあ、それでは味気ない。で、人格神、という”早わかりの仕組み”が生まれたのではないだろうか。

芸術は、紙や空間や製作者の頭の中に、世界を作りだす、という行為である。
なので、それは(規模や現実感の差はあるかもしれないが)やはり創造の行為なのである。

であるからして”魔法で紙の中の存在を現実世界に取り出す”というような行為が、地続きである感じにすこしなるのではないだろうか。

そのことを、ルネ・ジラールは”芸術は神の模倣”といったのだと思う。

という意味では、芸術を志す、ということは、例えるなら自身が創造主であると認識して人間世界を造ったとされるグノーシスの”偽りの神”、デミウルゴスが行った行為と、それは似ているともいえるだろう。

グノーシスでは残念ながらデミウルゴスの行為を、傲慢で邪悪な思いあがった行為、としてはいるが、まあ、その教義を自分ながら考えるに、別にデミウルゴスは自身の出自も、真の神の存在をも知らずにこの世界を造り出したのであり(少なくともはじめは)、その後水面に真の神の姿をみて”ENVY”に駆られているわけである。

そういう意味では、はじめの行為が、傲慢ではあるかもしれないが、自身が神のごときものに似せた行為をしよう、ということはなかったのだ。

そうかんがえると、すこしく気の毒な面もあるかもである。

あくまで悪いのは、自身で惑いデミウルゴスを産み落としてそれを放擲した、

”母”であるソフィアの罪、と言えるのではないだろうか。

まあ、グノーシスへの脱線はおいておいて。。


で、”時間は永遠の似像”というプラトンのことば、

時間と永遠は、ちょっと見相反するもの、過ぎるものととどまり変化しないもの、という印象を受けるものだが、

そうではない、両者は似通っている、とプラトンはいうのだ。


つまりは、過去や未来はあくまで”主体”の”記憶は思惟のなか”にあるもの、
時間の中には”今”しかない、といようなことと

もしかしてつながっているのかもしれない。

(いつもの妄語ですみません(笑))


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豆象屋
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