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9月18日 「 西田哲学への問い」上田閑照編と、「それでも気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている」村瀬秀信著を、図書館で借りた。
どちらも面白そうだ。
私はやはり東京での一人暮らしが約1年(10月で)となるので、まあ、いろいろ行ってみたわけである。
初めのころは、久々の東京生活に舞い上がって、どんどんGOOGLE MAPでブックマークをして個別店?つまりはチェーンではない普通の店に行きまくったが、やはり行き慣れたサイゼリヤやスタバやマクドにも行っていた。ファミレスはなんとなくあまり行く癖がなく、名古屋時代は主にサイゼリヤとスタバオンリーだったので、その癖が抜けなかったのだろう(サイゼリヤはファミレスと似てはいるがたぶんカテゴリーは微妙に違う気がする)。
働く場所が変わり、実は前より使える金が減ったのだが、そのことをあまり意識せずにいろいろ行った。だがこの数か月でこのままではいけない、ということになったことは、最近毎日言っている(耳タコですみません)。
そのことをこんなに毎日ぐちぐち書くのは、そのことが残念なのだろう。折角の東京ライフが満喫できない、というルサンチマンもあるだろう。というかそれが一番だろう。
だが、日々の生活は私だけのもの。ルサンチマンまみれではもったいない。今が一番若いのだ。
自覚とは自己が自己に於いて(引用元6文字強調点あり)自己を見ることである。そういう自覚は、自己が場所そのものになること、自己を無にして見る、という仕方にいたって徹底する。それは知られないもの(知るもの)が知られるという自己矛盾の出来事として生起するのである。自覚はたんに知るものと知られるものとの同一ではなく、矛盾の自己同一である。そういう自覚の事実が、あらゆる出来事に先行する最も直接で原始的な事実である、というのが西田の根本直観というべきものである。
上掲書より、この箇所は大峯顯師による文章である。
編書であるので、ぱらぱらとめくったところ、大峯師も寄稿されているのでまず読んでみた、ということだ。
大峯師は私にとっては特別な人であり、なぜかというと詩人でもあり、宗教者でもあり、学者でもあり、なにより池田晶子さんとの共著、「君自身に還れ」を著わされた方である、というのが一番大きい。
その中で池田さんを評して、菩薩、つまりは衆生を救うために現世にとどまっている仏になる途上の存在である、とされたのである。
私如きの感想としては偉そうすぎるのだが、その時の素直な感想は「なんたる慧眼」というものであった。
勿論宗教的な意味ではない、詩人としての大峯師の感覚がそう語らせている、と感じられた点が一番印象深かったのだ。
このあたり、もしかすると読み方によっては誤解を生むかもしれない。だが世に真理を、ロゴスを、その口を通して巫女としてよみがえらせよう、と思われていた池田さんの姿が、巫女と同様の意味で衆生を救う、という行為でもあるという評価、
そのことだけでも私をして大峯師のいちファン、とさせたのであった。
自己矛盾、違うは同じ、同じだが違う。まとめて一緒、すべては”一”でものとものとの“境界”はない。
煎じ詰めればなんでもかんでも一つになってしまう、という予感に私自身も包み込まれる中、ちょっとずつ両書物を紐解いていきたいと思っている。
(まだ西田哲学についての考察には至ってませんが。。。(笑))
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