7月7日 幾何学者の理想とは。WEBでの文化継続の可能性。
理系の人というのは、物事を数字で考える、という行為が嫌いではない人のことで、物事を数字ではどうしても考えられない人のことを文系というのだ、と思ってきたし、今も思っている。
しかし、理系文系関係のない世界、つまりは日々のこの「動物」として餌を食べ、まずは生体としての自分を保つ、という仕事以外に、なにか、本質的なものを求めたい、という思い自体は別に理系も文系もないのだろうと思っている。
求めたいが、アプローチの仕方がやはり自身に一番合った、楽な形になるだろう、というやつだ。
理系でも理学部しか行く気が起きず、工学部に行けない人がいるだろう。あまりあったことは無いのだが。
文系でも、どうしても文学部にしか行けず、結局国語教師にでもなるしかない人が。
また体育や芸術でもそういったことが起きるだろう。
昨日や一昨日の稿ではそんなことばかり書いている。
私は、人にものを教える、という行為は自身ではあまりできないだろうと感じていた。万人向けのコミュニケーションができないからだ。
勝手に自分の好きなことをやって、その結果を相手のことはあまり考えずに、好き勝手にしゃべっている、という存在にはあこがれた。
それが大学教授のイメージであった。
いまは社会でいじめられて、社会の歯車となる人材を生み出す機構で働く人、というイメージになってしまったが。。
いわゆる「学問への自然な敬意」というものが、この国にはない気がする。
他の国にはあるのか。まあ、なんとなくヨーロッパでは、例えば美術館がただで見られる、というようなところ、それを国民が「無駄遣いだ」と感じないところなどに文化を感じる。
森博嗣さんが、「そういった文化を持てることは稀有のことで、人々に余裕がないと成り立たない。今はこの国には余裕がない」といったようなことをおっしゃっていた気がする。
だが例えば売りつけるわけではない、作家が自ら費用負担した個展などでは、ただでそういう文化に接することが結果的にできたりする。
そういう草の根の文化、のようなものは、かろうじて人口が多く、マーケットが成り立ちうる東京では存在している気がする。
地方では困難であろうが、しかしWEBでの周知により、通信販売等でそういった文化がちいさく生き残ることができる余地もまた、あるように思っている。
(WEBというのは、空間を超えて人をつなげうる面がありますね)