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日記5月9日(日) #日記  図書館の恐怖。

昨日夜の体重は64.4kg(夕食前)。体脂肪7.2%。今朝の体重は64.4kg(朝食前)。体脂肪は10%。これくらいの体脂肪率変化はむしろ小さい位なのだが、面白いのは夕食分の増加がないところ。寝ている間に消化されるのだろうか?

一昨日は64.5kgであった。昼食を食べないと日によっては0.5KG位の減りがあったのだが、ここでは0.1kgであった。だいぶん減る部分が無くなってきたのだろうか。

だが去年の夏には63キロ代をたたき出しているので、これ以上は必殺”夏にスーツ”作戦で、汗をかきまくるしかないかもしれない。

まあ、誰かの為に体重を減らそうというよりは、体重が少なめ、もっというと下っ腹に肉がないと、”よしよし頑張って生きているな”という感じがして嬉しいのでやっている。そしてなによりいいのは、体重を絞っていれば、いざ爆食い、という時に遠慮なく突入できるところだ。もちろん鶏肉や野菜中心であるが、心おきなく食べられるというのは、とても楽しい。

なぜかはわからないが、子供のころから”肉のついた腹”のビジュアルがいやだった。そしてすぐに自分でも再現できるのだ。

こどもの時に、ベルトで腹を締めすぎていて、母親に”そんなに締めたら苦しいやん”と指摘されたことを今も思いだす。なぜにこれほど”腹の太り”がいやなのか、自分でもその深層心理をいつか検討したいと思っているほどだ。

いまだにその”太っ腹呪縛(意味が違う?)”は健在だ。ドローイン、なども積極取り入れしている(強迫観念?)。

恐怖、について。(今日のエントリーはちょっと気持ち悪いので、潔癖性の気がある方にはおすすめできません。ご注意下さい)

恐怖を恐怖と思い目をそらすと、よりその恐怖に魅入られる。

なので、恐怖があることを直視すること、そしてそこに含まれる要素を分解し、真理や真相を求めることが必要であろう、と思っている。

図書館で借りた本で、今日すこしぞっとした。

ある本を借りたのだが、あるページ以降で不自然にある活字の上に紙を貼って訂正してある部分があることに気付いた。

ことばは”女性”の“性”の部分。はじめはたまたま見た借り手が誤植を見つけてたまらずに”自分で訂正”したのか、と判断したが、別のページでも同じく“女性”の“性”の部分に紙が貼ってあるのを2か所確認した。

図書館の、時として歳経りた本には、読者がたまらず記載した横線や感想を見ることがある。不思議なもので、個人の蔵書を売りに出した古本でそういうものをみつけると、積極的に楽しくなってくるのだが、図書館の本であることを知りつつ書き込む行為は、その本を後から読む読者にあててのメッセージである、という意味で、あくまで個人の感情のみずからに対する覚えである蔵書の書き込みとは別のものであるわけで、あまり楽しい気分にはならない。

そしてその貼り付けにも違和感があった。最近では結構有名な出版社であっても誤植をみることがたまにあるのだが、そうはいってもほとんどない。私が見つけた本(敢えて名は秘します)を発行する出版社が3か所(これからもあるかもだが)も誤植をしたとは思えない。

”女性”の“性”だけに貼っているので、もしかするとある読者がその意見方針に反する表現にはらをたてて、自己の主張をその”修正貼り付け”で表現しようとしているのかもしれない。そう思ったのだ。そういうケースは、はっきりと覚えてはいないが、書いてある内容が違う、というたしか歴史的な記載について、読者個人の意見が鉛筆で書かれているのを見たケースがある。

だが繰り返すが、将来の図書館読者にとって、そうした知識の開陳は、自己顕示欲である、としか思えない。あまり気分はよくはない。

だがではその紙の下の文字は何だろうか。

興味に勝てず、一枚めくってみた。そして正直すこしぞっとした。同じ字なのだ。女性、と書かれている。間違って、いないのだ。

たまらんなあ、という感じである。底知れぬ、深淵を覗き込む感覚。

そしてその感覚と同時に、もう一つの”タマラン図書”のことを思いだしていた。

同じく図書館で借りた本。そうとう古く、紙の色が茶色に近い黄土色に褪せていた記憶がある。そして、内容は覚えていない。多分”書庫”に貯蔵されており、希望により貸し出す、という系の本だったような。

なんとなくだが、歴史小説、あるいは剣豪小説、であったような気がする。あるいは”宮本武蔵”だったかな?

内容が思いだせないほど強烈な印象を残したのは、導入部ですっかり魅了されて読み進めていた部分ぐらいから突如出現した、本のページの上の方にひっついている数本の”鼻毛”であった。

いや、別の所の毛であってほしい。そもそも他人(と書いて”ひと”と読んでください(笑))の”それ(敢えて再記載を避ける)”をみたくもない。

慌てて次のページに進む。また、あるではないか。

次のページも、その次のページも。読みながら、抜いたのであろう。しかし、これほどの本数!めっちゃ生えてましたね。

いやあ、書いていても気持ち悪くなってきた。私は家では“汚な好き”と言われ、綺麗ではないものへの耐性を褒められているのだが(いないか)、それでも耐性ぎりぎりの経験であった。

半分意地で、読破した。

両書に共通するものはなんだろうか、と考えてみて思いだしたのは”駅の便所の落書き”。

最近はめっきり見なくなった。そのことから、この日本と言う国が良くなっているということをしみじみ感じる、のだが、昔は駅の男子大の便所の壁、しゃがんで目の前という一等地には”たまらん言葉たち”が躍っていた。

いや、見てしまう。その辺の列車広告の比ではない。世界で一番注目される言葉たちだったかもしれない。そして内容は、最低だ。

図書館、というものが、公共のものであることを実感する部分である。公共空間である駅の便所の男子大の座ったときの目の前の壁、と、その属性は全くおんなじなのである。

そこに共通する部分。(ほぼ)決して出会うことがない、過去の匿名のきもちわるい個人の存在を、感じること。そやつが、それを伝えようとしていること。いやあ、気持ち悪い。

おっさんである私がこんなに気持ちわるいのであれば、綺麗好きな皆さんにとってはどれほどの地獄であろうか。

古本や古着、いわゆるユーズドが大好きな私であるが、たまに”人が使ったものは汚い”とおっしゃる方に出会うことがある。日本人に古くからある”穢れ”の感覚かもしれない。

汚いものどんとこい!の私の看板が、すこしくゆるぐ、出来事2件であった。

(やっぱり新品はすばらしい!!日本人にとって、”家”もそうなんですよね)

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豆象屋
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