日記3月14日 懸垂と、「自身が不幸であれば、その理由を直視し、自身が持っている資質でなんとかすこしでも事態をよくするよう努力する」こと。
私は逆上がりができない。
多分一定数そういう人がひとクラスに交じっているだろう。
ボール投げは10M位?
カナズチだ。
とにかく運動全般でさっぱりだ。
野球やサッカーはもってのほか。テニス?一度もやったことがない。
小学校時代は、なので体育の時間はとにかく「針のむしろ」。
ほとんど針が視覚化されていた気がする。
なので、運動神経なしで鍛えられるものに特化するしかない。
それが「相撲」であった。
相撲では、覚えている範囲では負けは1回だ。いや、すごく強いわけではない。だが学校で相撲などとらないのだ。
技は「押し出し」。投げはない。テクニックはない。
私は幼少時よりとにかく骨盤がでかかった。なので、押し出す力はあるのだ。小学校時代は身長は後ろからだいたい2番目くらい。なので体格が生かせるのだ。
誇示することは無い。個人的な「矜持」としてすがりつくのが「運動はアカンけど相撲は負けへんで」であった。
まあ、いまも似たようなものだ。中学時代はあまり体育に熱心な学校ではなかったのがありがたかった。「柔道」というひと科目があり、週に1回行った。
これはまあまあ、悪くはない。少なくとも負けはない。
柔道の辛いところは、帯があまり持てないところ。相撲では前みつ(ベルトですね)を取って、つり気味に押し出す。これでしか勝てない。
柔道ではそでであるが、とにかくそれを激しくKEEPしておけば、相手はほとんど投げられない。まあ、通常の膂力の中学生ならば。
なので、授業レベルでは「ひきわけ」か「締め」での勝利。締めはいやがられるが、これは使える、と思っていた。
これも「腕の力」が使えるからだ。
膂力の強い相手がいる。強引にすっぽぬかれて、強く抵抗していた右手が複雑骨折したことがある。まあ、それだけ抵抗した、という感じがしており、なんとなくポジティブな記憶ではあるのだが。
自身が不幸であれば、その理由を直視し、自身が持っている資質でなんとかすこしでも事態をよくするよう努力する。
はからずもそういうことをずっとやってきた。
運動ができないことをずっと残念に思ってきたが、そのおかげで「自分にとっての運動とは鍛えだけだ」という信念が芽生えたようにも思う。
鉄棒が出来ない、というのはたぶん幼少期にほとんど鉄棒からぶら下がったことがないからだろう。水泳などをやっていれば(たとえばジェイソン・ステイサムのように)背筋が自然と鍛えられるのだろう。
そこでやっと表題の「懸垂」にたどりつく。
会社に「ぶら下がり健康器」があり、昼休みにそれで懸垂を行うようになった。
順手で10回を3セット。逆手で10回を1回。
都合40回である。
前は腹筋を中心にやっていたが、最近は懸垂に切り替えた。はじめはぶら下がるだけでもきつかった。10回の懸垂で息が上がった。
1年位になるだろうか。
この数日、息が上がらなくなった。前はなんとなく全身で必死で身体を引き上げていたが、背中の筋肉の特定の部分で引き上げられるようになった感がある。
多分、そうした筋肉が特定され、進歩したのだろう。
こうしたささいな進歩が感じられるところが、鍛えることの醍醐味である。
(まだまだ回数は少ないですが。。多い少ないで人と比べるものでもありませんので)
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。