9.6 あの世はあるのか、そしてそこで求められることとは。
新潮選書 中島岳志氏の「親鸞と日本主義」を図書館で借りてきた。
私は親鸞に詳しくない。だがいわゆる仏教とは「葬式仏教」としての仕組みである、と思ってきた子供時代から、「始祖」や「教祖」は別に葬式をしたいわけではなく、「教団」の中に生業を見つけ金を稼がねばならなかった後継者が結果としてではあるが「葬式仏教」にいるのであり、教祖のピュアな考えは接して考えるに値する。
そんな風にいまは感じている。
そういう意味では仏教に興味が沸いているのだ。
中島が本書で引く、吉本隆明の「最後の親鸞」の一部を孫引きする。
念仏をとなえれば、浄土へゆけるという考え方は、親鸞にとって最終的には否定さるべきものであった。なぜならそこには、個々人の「御計(おんはからい)」の微かな匂いがたちこめているからである。念仏をとなえるという行為のなかに、微かな自力の目的意識が働いているからこそ、称名念仏と浄土とが単純に因果の糸で結びつけられてしまう。⁅吉本2002:40]
念仏をとなえるだけ、というが、では念仏を唱えないとどうなるのか。何かを得る(この時は極楽往生する)ために、選択してとなえる、いわば目的のための「切符」として念仏をとなえること。
これを親鸞は否定した、と吉本はいうのだ。
つまりは条件として「念仏」をいうことは、条件として「壺を買い、他人にも売りつける」という行為と本質は同じである。ただ「念仏」が「現世的」にはアクセスしやすい(まあ単純ではありませんが)雰囲気がある。つまりは口を動かすのみで(表面的には)あるのであるから。壺は現世での「金」が必要である。だがゴーダマはどうしたか。王族の身分を捨てたではないか。
何かを得るための「対価」を求めることはしない。この世のすべては「あの世」で決まっており、なにをどうしようがそれがそれであるのだ。
そういう「絶対自由」が親鸞にある、というのだ。それが私の理解であった。
これは確かにそうだろうと思う。何かを得るために条件があるのなら、その条件を満たせない、あるいは満たそうとしないものはどうなるか。草木は国土は悉皆成仏するというではないか。条件が、必要ですか?
まあ、そんな感じである。
私は「自由」に取り込まれているのだろうか。
自ら「自由教」にがんじがらめにされているのだろうか。
そうかもしれない。
(がんじがらめになるのも自由、ということでしょうか。。)