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7月6日 書くという事。「きみが習い覚えたささやかな技術を愛おしむようにせよ」。

PCで打つことも含んで、なぜ書くのか、ということはあまり考えたことがない。
では、息をするように書いてきたか、というと、私はあまり日記を書くという習慣がなかった。つまりあまり書きたい、というタイプではない。
どちらかというと読むほうだった。絵本、絵物語、小説、漫画。

私は視覚派か論理派かといえば、視覚のほうだろう。音楽は好きだが、BGMという位置が今は多い。歌の中の詩を愛でる、ということは無くはないがいつもというわけではない。だから聴覚優位でもないし、触覚や味覚優位でもない。

なので、幼少期より絵は描いた。主に漫画の模写。自分で書く、ということはおのずから湧き出るように書く、という感じではずっとなかった気がする。

いまはここに結構書くようになった。きっかけは池田晶子さんのご著書を読んだことだ。そして2007年の池田さんのご逝去。つたないながらも、池田さんの喝、「悩むな!考えろ!」を自分なりに行うには、こうした形でのブログがいいかも、と思ってのことだ。

漫画も本も、燃料、肥料のようなつもりで読んできた。いつかそれが結実するように、読むことは修行だ、という思いが淡くいつもあった気がする。

インプットとアウトプットを意識しよう、そしてアウトプットしてみると結構インプットが昇天というか脳内メモリーから後退することに気づく。そうか、書くとあたらしい思いを入れるメモリーができる!!

それこそこういう面は人間もIPHONEも似たようなものかもしれない。

そして老後は自然とメモリーが消去されていく過程か。

容量が小さくなり、過渡期のものから消えてゆき、初期設定のような幼少期のものだけが残るのだろう。

わたしは究極的には、自分の書くという行為が今日の文化生産と消費の回路から完全に逸脱した、無用のものであってほしいと考えている。無用であることは無償であることにほかならない。
 きみが習い覚えたささやかな技術を愛おしむようにせよ
マルクス・アウレリウスが『自省録』に書き残したこの言葉を、わたしは長らく座右の銘としてきた。

P.44 四方田犬彦 「人・中年に至る」

四方田氏が57歳の時に書き記したこの境地、大学在学中から絶えず書いてきた方ならではの、ある種「心意気」というものを見る気がした。

(書いて稼ぐ、という文筆業・大学教授であれば、書くことへの立ち位置はいつもどこかで考えているのでしょうね。。)

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豆象屋
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。