8月10日 ヘラクレイトス。
「人間である以上誰でも自己自らを認識し、正しく思慮することができる」(Fr.116)と教え、「余は余自らを探求した」(Fr.101)と昂然として断言する彼は、かの「内面への途」を知悉する神秘道の達人であった。彼は人間霊魂の恐るべき深さを熟知していた。「何処まで行ったとて、如何なる途を辿ったとて、霊魂の限界は見出せないであろう。それほどまでに深いのだ」(Fr.45)
井筒俊彦 「神秘哲学」 P.48
魂、という語を私は日常ではあまり用いない。使ったとしても例えば無害な「高校球児」への形容詞や竈門炭治郎が例えば「魂を燃やせ」と叫ぶなど、まあ気合の入った精神、という風情もまとった感じが、日々の生活で個人的に見聞きする中での使用例であるように思う。
それがいいとか悪いとかではないし、日本日常ではほかにも「霊魂」と同じ意味で使用する例も案外多い。すると前述のヘラクレイトスの断片でつかわれる「魂」の意味とも、実はここ日本での「魂」用法は内容的に近いのかもしれない。
宗教、という日本ではいささかナーバスな話題・問題の中で見ても、魂、というと人間の肉体にあって肉体を使役するもの、というイメージを受ける。このあたりの人によっての同じ言葉への理解の差異の大きさが、この語を安易に使用できないものとしているのだろう。
池田晶子さんにも、アンソロジー、「魂とはなにか」という書がある。
魂とは何か さて死んだのは誰なのか
魂とは何か さて死んだのは誰なのか
作者:池田 晶子
トランスビュー
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池田さんは折に触れご著書で「魂」という語のむつかしさを語ってらっしゃる。
だが、冒頭のヘラクレイトスが如く、池田さんご自身も内面では激しく「魂」という語について肉薄し、考えていらしたとも思うのである。
仮定の上で、というべきかもしれないが、私もまた池田さんが示されたテーゼというかテーマというか、「魂」について考えることは愉しい、と感じている。
肉体と世界の境界はない、という考え方に基本賛成する気分で普段いるのだが、一方でこの「肉体」という軛の中で、一定の制限下で「生きている」と感じる面も、普段の生活ではある、と思っている。むしろそれが皆さんの普通の感覚であろう。
ヘラクレイトスの思考の「断片」群に接することは、そうした「池田さんを読んだことで教えていただいた」魂への疑問提示的な「考える」に、なんというか大きな指針というか姿勢を示してくれる格好のきっかけになる気がしている。
どこまで行っても「結論がない」ことを考えるのは、愉しい一面、きりがなさすぎる、ともいえる。
そこにつまずくようなとき、所詮魂とはそういう位置にあるものだ、ということを当たり前なものとして提示してくれるもの、
そういうものが「ヘラクレイトス」なのである。
(文中で竈門炭治郎のことを書きましたが、設定上(どの話でか、という事は重要ですが)終盤では15歳、165cm、61kg、ということのようです。柱稽古篇ではなかなかビルドアップした肉体を見せていましたので、少し重めの”61kg”という設定は結構正確だな、という気がします(私の最近の最軽量記録は62.8kg位、背はもうすこしありますので))
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。