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日記1月16日。 #日記

正月気分が、抜けてきた。

今年はそもそも皆さん正月気分自体があまり醸成されなかったかもしれない。私も毎年の元旦実家詣で(母が元旦生まれ)がなかったので、この数年で初めて正月に自宅にいた。

長年培った、”季節”"四季”という感覚の所為で、正月になると”いろいろリセットせねば”という気分に私もすこしはなる。三日坊主とセットではあれ、なにかを1年単位でやろう、と思うのはよい機会だ、という感覚もなくはない。

といっても特に新しいことを行うわけではない。敢えて言えば例えば昨年から急にどういうわけか始めたこのnote、をできるだけ続けよう、とか、銅版画では今年はすこし大き目の作品をつくろうか、といったレベルである。だが思うのだが、自分で書いたり、描いたりすることは基本的には楽しい。

どうして楽しいのか。義務ではないこと。仕事ではないこと。

これが理由であるだろう。

この日記でも何回も出てきているタモリの名言、”仕事じゃないんだ、真面目にやれ!!”ではないが(いやそれなのだが)、金が対価としてぶらさがった作業には、どこかそこはかとない(”そこはか”で果たしていいのかは別として)義務感が当たり前だが抜けることはない。義務感と共に時間を消費すること、これこそまさに”時間で金を買っている”であろう。

思えばさまざまな形で、時間で金を買ってきた。多くは、関係性を買ってきた、と言えるだろう。組織の中での関係、顧客との関係、主にその2つになる。

この2つを構築するために、やりたくない、という思いは(だいたいもれなく沸き起こるが)押さえごまかして時間を売る。これが”働く”ということの私の定義となる。

当然、ストレスフルだ。血圧も、上がる。健康も、小遣いも、減ってしまう。だが仕方がない。それが働くことなのだから。

私が文系だからか、新しく技術を生み出す、というわかりやすい働き方ではない。だが組織・顧客との関係構築から生まれるもの(販売)もまた、生み出されるべきもの、金と交換されるもの、ということになる。

だがそうして時間を金に換えることに慣れすぎてしまうと、好きなことをやろう、という気持ちが芽生えなくなってしまうかもしれないと、思っている。あきらめてしまう、ということだろう。

意識して、毎日10分だけでも、やりたいことをやる、ということをいつからか自分に課してきた。集中はだいたい10分くらいがいい。これは個人差があるだろう。私の、場合だ。これをこまぎれで、1日2-3回できれば御の字だ。積み重ねれば、じっくり時間をかけた、という感じにはならないが、例えば版画の作品はできる。本当はものすごく1作に時間がかかった作品にあこがれるし、作りたいのだが、あまりそのことにこだわらないように、気楽な感じで制作に取り組もうかな、と最近は考えている。

(集中しなければ、という義務感があり(できればもちろんベストですが)、できないとストレスになりますよね。)




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豆象屋
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