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7月21日 怒りとは結局”比較という地獄”と同じ構図かもしれない。

本日の体重64kg、体脂肪10.1%。

痩せて体脂肪率を下げるよりも、筋量の絶対値を上げるほうがいいような気がしている。落とすことは摂取する食料の調整でやろうと思うとできるものだが、筋量は鍛えるしかないからだ。

まずは体重を増やして筋肉に変える手もある。体重をただ減らして運動量が少ないと筋肉をエネルギーで使ってしまうリスクもある。

やみくもな体脂肪率重視はあまり良くないかもしれない。
長生きするBMIは22からともいうし。

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怒りとは正しい自分と誤った他者を比較して発生するものだが、他者を自分が変えられない以上行き場は結局どこにもない。
個人と集団(会社、政府、国、人類)も同じ

今朝のメモから。

同一ではないものの、怒りが精神にて発生する過程は、人との比較で心に起こる過程の一種であると言えるように思う。

つまり、自分と他人(他者・他物・他事象)を比較して、その差異に対”自己に被害や損害(精神的なものも含む)を与えそうなもの、ひいては生存を脅かしたり、中長期的にQOLに悪影響を与える可能性があるものに対して、心が波立ち、”怒り”という形での生存本能が立ち起こるわけだ。

その怒りの原因に蹂躙されると、例えば自分がミジメな気持ちになる、年金や給与が減る(政治や会社)、下品になる(人の不倫がうらやましすぎて僻みから叩くなど)、食べ物が買えない、自分に危害が加えられそうな気がする、ETC,ETC,である。

そういう構図を客観的に把握し、怒りが沸き起こった場合、そのとき自然に自分が比較している事象や対象はなんなのか、それに対し他人は変えられないので、自分はどうすることができるのか、ということを分析して把握するのである。

対象から身を離すことも手であろう。
時には相手に対して攻撃をすることも可能かもしれない(その結果も事前予測する必要あるが)。

だが、基本は”比較は地獄”である。比較であることを深く理解すれば、そもそも怒りが我が脳裏より消えるかもしれない。

そういう思考実験を続けることで、自身の心が安易に怒りに囚われることなく、平静な境地で徐々に生きられるようになるのであれば、

それは各人の人生に於いて得策のような気がする。

(もちろん対策を打たない、ということではありません。冷静に問題に対して必要なできることをやってゆく、ということがセットになりますね)



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豆象屋
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