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3月11日 芥川文夫人の面影。


初対面の夫人は、背が高く、想像したよりずっと若く美しい物腰の夫人でありました。
少し早目な物言いが、いかにも活動的でさわやかな印象でした。(中略)
「世間の方は、私が元気でいるなどと言ったら驚かれます。もうとっくに私などいないものと思われているようですよ」(後略)

p.172 追想芥川龍之介 筆者(中野妙子)によるあとがき

1963年、昭和38年(芥川文63歳頃)

芥川龍之介は養子であった。

母が龍之介の姉が亡くなったのは自分が飲ませた飲み物のせいだと気に病んだとか、渋沢栄一のもと広大な牧場を経営する父の不貞のせいだとか色々な意見があるようだが、いずれにせよ精神を病みきつぬの顔を持つ人物の絵を請われれば描く静かな病人となった。

母は5人の姉妹がおり、幼い龍之介は母の姉夫婦の養子となり、同居する長じた龍之介の風貌にそっくりであった母の妹に溺愛されて育った。

途中で実の父から龍之介の親権をめぐり訴訟を起こされていることも、未成年の龍之介の心をどうかき乱したことだろうとも思う。

長じた龍之介は年寄り3人に加えて後年汚職疑惑に対して抗議の自殺をした義兄の残された家族の世話をもやらねばならなくなり、薄暗かったと言う家に絡みとられるような圧迫感を持っていたように思うが、

養子であることを常に意識し、期待された成績を常に取らねばとの内的プレッシャーもあったと言う。

そんな中、16歳で婚約し、18歳で嫁いだ親友の姪である文もまた、家に絡みつかれ、龍之介の伯母には嫌味を言われ、子供の世話で毎日を忙殺される日々であったという。

或る阿呆の一生をみると、龍之介は自らの自殺手段を考察しており、轢死や転落死、水死首吊りは勝手ながら自らの美学に合わないので、薬による自殺をする事とし、実際に自殺する前に2度ほど帝国ホテルで自殺未遂をしている。

帝国ホテルであれば、自らの死を世間から隠す事ができる、との判断であったが、2度目の胸騒ぎで文夫人含め数人が駆けつけて命を取り止め、思わず大きな声で叱りつけた文夫人に涙を流して謝ったという。

そんな所で主人は足をとめて、
「あの松は枝ぶりがいいね」
と言います。私はすかさず、
「ちょうどいい枝ぶりではありませんか」
と先手を打ちます。
 自殺するのにも、枝ぶりの良い松の木がいいなどと平気で言ったりしますので、先手を打つのです。すると主人は黙ってしまいます。

p.185 同書磯田光一氏あとがきからの孫引き

絶えず自殺を仄めかしたのは、本当に実行した時の心構えを或いは文夫人に持って貰いたかったのだろうか。

ワタクシハ アナタヲ愛シテ 居リマス

ダカラ幸福デス

小鳥ノヤウニ幸福デス

結婚前に文夫人が貰った恋文である。松屋製のブルー罫の原稿用紙四00字詰のものを半分に切ったものに書かれていると言う。

夫人は手紙を原稿用紙に貼って保管したとのことだが、長い年月に紙の色は変わっていると言う。そして多分一抹のかそけき皮肉をまぶして言うのだ。

「私はときどき、主人の手紙も創作の一部であったかも知れないと思ったりします。」

多分龍之介は自らをめぐる人々を含めて、生きた小説を遂行して死んだのだろう。

、と思っている。

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。