4月17日 究極的実在のありか。 自分をあわれむと、歩み寄れない。それにつけても、ゲドにハウルの動きと演出があったのなら。リメイク希望。総監督は引き続き宮崎吾郎さんで!
勝間和代さんをたぶん、お見かけした。
昼休みは皇居周りをあるくのだが、13時ちょい前にアリアを見かけた。
たぶん初めてだ。
あ、アリアだなと思ったが、乗られている運転手はピンク色の服にソバージュの女性であった。
私は近眼なのではっきりとはわからないが、たぶん勝間さんが銀座に出かけられて帰られるところだったのだと、思う。
毎日サポートメールをみてYOUTUBEを見ているが、いわゆるWEB空間の方というキャラ設定であったので、実際にニアニスしてみてなんとなく感慨があった。
まあ、それだけなのですが。
東京の人間でないので、有名な方にあうとときめくのだ(笑)。
井筒俊彦、神秘哲学P.48から。
エレア学派は、究極的実在のありかを「自然(フェシス)の彼岸に」見る。
metaphysisches Wesen
ヘラクレイトスは、究極的実在のありかを「霊魂(プシュケー)の彼岸に」見る。
metapsychisches Wesen
ギリシャ語はわからないので、ほとんど同じに見えるが。
またヘラクレイトスは、「一者は一切である」とし、「一切より一者は来たり、一者より一切は来る」とする。
なんというか、すがすがしい言い切りである。
ハイデッガーは時にとらわれがち(エゴだろう)な自己を認識し、本来は時とは「ビデオでスイッチを入れたときに目に入ってくる情報」でしかない、と喝破する(自分しらべ)。
時にとらわれる、科学にとらわれる、エゴにとらわれる。
だが、エゴを見据えれば、ゲドのように同化できるし、エゴは「敵」ではない。エゴとは「自己の一部」であり、本質的には自己を生かそうとするものだ。
時や科学についても、そうかもしれない。
最近いろいろ微妙なことがあり、キブンが落ちた。
エゴ、のやつのせいだろう。
自分を憐れむということは、自分をこんな気持ちにさせる原因、人を恨むことだ。
だが、「人は変えられない、変えられるのは自分だけだ」とすると、
人を恨むことで相手が変わらぬ以上、
急がば回れ、自身を憐れむことをやめ、相手のことを考えることで、自身が安らげる、ということになる。
つまりは、「自分のためになる」。
まあ、自分のなかでの「エゴ」とのやりとりとは、こんな感じになっている。
(ゲド戦記とハウル。似たようなテーマですね。ああ、ハウルの動きと演出がゲドにあったのなら。お父さん、やってあげてよ。子供と親は違うのだから)