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6月20日 洞窟の比喩。
換言すれば、洞窟の比喩は、人が神秘道に踏入っているか否か、また踏入っているとすればどの程度まで進んでいるかを、神秘道全体の上から一望のもとに鳥瞰せんとするのである。
遅々として進まぬ井筒本であるが、進まぬ言い訳として、一語一文の中身が濃すぎる、ということもある。希代の博識であられた井筒氏の心構えから生まれた文に込められている、「言霊」としか言いようのないような気合のようなものに当てられる、という事もあるかと思う。
これは前に一度引用したが、井筒さんの弟子筋にあたる牧野信也さんの文だ。
また、学問のための学問などというものではなく、その対象と主体的に取組み、それによって自分を厳しく見つめ、追及すべきだ、ということである。実際、先生にとって、学問とは、単に対象を理論的に研究することではなく、それを通して同時に自己自身をこの上なく厳しく凝視し、且徹底的に追及する「道」にほかならないのである。
井筒氏の「神秘哲学」を読んで感じるのは、この「対象を学問としてみるのではなく」ということだ。まさに例えば先人の哲学者が、「学」ではなく「生」、「真実」、「実践」としてぎりぎりの境地で絞り出した言葉を、受けて体感して、それを自らからでる「言葉」で「道」として文章にたたきつけている、そんなスタンスだ。
なので、読んでいてもしかすると「ちょっと怖くなる」面もある。これを読んだ自分は、神秘哲学を既に半ば実践してしまい、しらず神秘道の学徒となっているのではないか、と。
これは怖いが、凡百の読書体験とは違う、異次元の体験とでもいいたいものだ。
そんな井筒氏の文章、これは戦前、これから入隊し生死の境に行かざるをえない、という学生たちに向け準備されたものだいう。
魂の講義を受け取った学生自らの魂を、どうか導くよすがともなってほしい、
そんな井筒氏の願いもまた、どこか感じる気がするのは私だけだろうか。
(覚悟、ということばは「道」と親和性が高いですよね)
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