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12月5日(日)#日記 政治家・芸能人のスキャンダルについて。

雑誌の車中中吊りが無くなって、いわゆる週刊誌の見出しは新聞で見ている。

これにしても最近は「紙の新聞」を読む人は少ないということなので、そもそも費用対効果では高齢者のみがよむ紙の新聞に高齢者向け(遺産相続、死ぬまでネタ、健康記など)記事のサワリを見せるほうがいい、ということだろう。

私は実はあの政治家や芸能人の不倫や愛人の記事が端的に嫌いで、いや、もし自分が政治家や芸能人になったとすると、有名人であればいろいろな人が寄ってくるし、それに対応すると客観的には「不倫」や「愛人」にいくらでも加工できるのではないか、と思っていて、それを思うと素直に糾弾する気がおきなかったのだ。

今はどうやら、皆さんそういう方向に来ているようで、これは「ごみ捨て」や「タバコ」や「パワハラ・セクハラ」と同様、すこしずつ世界が進歩している面の一つではないかと思っている。

「人のふり見てわがふりなおせ」という。

これは表面的には、自身も知らずやっちゃっているよ、という一般論だろうが、少し深読みすれば、いつも客観的に第三者的に自分を見る目を持とう、という教えだろう。

「自分をいつも相対化する」
になります。
この相対化と言われるとピンとこない人が多いと思います。何をしたいかと言いますと、とにかくありとあらゆることについて、自分以外の自分がもう一人存在して、その人が自分を観察してるようなイメージを常に持っているということです。
  勝間和代

勝間さんも、こうおっしゃっている。

いわゆる政治家や芸能人のスキャンダルに怒っているうらには、バレバレであるのが「ENVY」だ。つまりは「うらやましい」と思うこと。これがあるのであれば、所詮は同じ穴の貉である。うまい汁を吸うな、という声には、それが「旨い汁」であるという認識があるではないか。

イエスは、自身に罪がないものが石を撃て、と言った。要はこれだ。

いや、自分は不倫なんてしていません、と断言する人に会ったこともある。それはそうなのかもしれない。だが、そのことを私に主張するようなキャラの人は、お前はしているのだろう、というマウンティングの人と認定している。

私はしませんが、今後絶対しないかどうかはわかりませんね。

多分しないと思っていても、そう表現して対話の相手をおもんぱかる、これが大人というものではないだろうか。

政治家や芸能人のスキャンダルが売れなくなったことは、端的にはこういうおもんぱかりの気もちを持つ人が増えた、という面があるだろう、と思っている。

一方でたぶん、人とのコンフリクトを避けたい、という気持ちもある。

ここは多分、「人との会話を避ける」「予定調和を狙う」という意味で、すこし評判の悪い面であろう。

まあ、両方の要素があるにしろ、総論では良い方向ではないか、というのが私の今の感触だ。

(出歯亀、ということばがあります。容貌を差別的に表現することで、その性根が卑しい、ということを表現しているわけですね。なので、昔から覗き趣味は卑しいもの、という意識もあったようですね)










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