4月2日 他者の存在が空間的対象の実在を成立させるとして、では単に「自身の内省(内観)」ばかりしていると空間的対象の実在は成立しないのか?

となんだかよくわからないことを想ったのは、

並行して内田樹「レヴィナスの時間論」と井筒俊彦「意味の深みへ」を読んでいるからである。

後者は神秘学へのアプローチをイスラムの回路を通して、という感じで受け取っているが、まずは神秘学、神秘主義の「骨法」について井筒はこう記している。

古来、東洋の、例えば中国の芸術論、特に画論などでは、見る働きの深化、見る働きを深める、深化させるということを非常に重要視致しますが、それはつまり骨法、すなわち存在の表面的形態や様相の底に伏在する根源的構造を直視するということでありまして、これがまさに「バシーラ」に該当いたします。神秘主義とは、ですから「バシーラ」を通じて実在の真相(=深層)を覗き見る体験なのであります。
井筒俊彦 意味の深みへ P.227

同時期に読んだ内田本では、このような記述に出会う。

空間的対象の認識を成立させるためには、「私が見ているものを誰かが見ている」という確信が必要である。この「誰か」との協働によってはじめて私たちの認識は成立する。
内田樹 レヴィナスの時間論 P.34

内観ともよばれるだろう深い内省が、基本自身のみで完結するであろう点に比して、自分以外のものが空間にある、ということには、自分以外の「他者」がそもそも存在して、その「他者」が自分と同じものを見ている、という確信が必要となる。

だが自分のみが信頼でき、空間的対象のみならず、他者さえも「本当にあるのか?」と疑問に思うとすると、そもそも問いの前提、「すくなくとも他者はいる」ということがゆらいでくる。

だがもし、「他者とは私がこの肉体に備わった五感では認識しきれないものの、そもそも内界外界の区別、境界はなく、「すべては一である」とするのであれば、そもそも他者=私であるわけだ。

なんだかよくわからなくなって来た。そもそも別の思想を同時に連携させることに無理があるだろう。だが一つの考えだけではなく、並走して考えることで、ある意味客観的な判断が可能である面もあるかもしれない。

(混乱してきましたのでこの辺で(笑))

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。