4月2日 他者の存在が空間的対象の実在を成立させるとして、では単に「自身の内省(内観)」ばかりしていると空間的対象の実在は成立しないのか?
となんだかよくわからないことを想ったのは、
並行して内田樹「レヴィナスの時間論」と井筒俊彦「意味の深みへ」を読んでいるからである。
後者は神秘学へのアプローチをイスラムの回路を通して、という感じで受け取っているが、まずは神秘学、神秘主義の「骨法」について井筒はこう記している。
同時期に読んだ内田本では、このような記述に出会う。
内観ともよばれるだろう深い内省が、基本自身のみで完結するであろう点に比して、自分以外のものが空間にある、ということには、自分以外の「他者」がそもそも存在して、その「他者」が自分と同じものを見ている、という確信が必要となる。
だが自分のみが信頼でき、空間的対象のみならず、他者さえも「本当にあるのか?」と疑問に思うとすると、そもそも問いの前提、「すくなくとも他者はいる」ということがゆらいでくる。
だがもし、「他者とは私がこの肉体に備わった五感では認識しきれないものの、そもそも内界外界の区別、境界はなく、「すべては一である」とするのであれば、そもそも他者=私であるわけだ。
なんだかよくわからなくなって来た。そもそも別の思想を同時に連携させることに無理があるだろう。だが一つの考えだけではなく、並走して考えることで、ある意味客観的な判断が可能である面もあるかもしれない。
(混乱してきましたのでこの辺で(笑))
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。