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9月25日 ”共通”というキイワード。

共通、共感、テレパシー、潜在的無意識、アカシア年代記、というような思想に興味を感じる。
そこから魂や神、存在、生、輪廻、宇宙、有と無といった事柄に繋がる気がするからである。

”人には魂があるのか”という問いは、あるいは”死後というものがあるのか”という問いに繋がるだろう。

そして池田晶子さんがおっしゃるとおり、生きていて死後の世界を見た人はいないわけであり(臨死時のビジョンというトピックはあるが)、それを議論してもいいが、確証をえることは”この生”のなかではない、というのが私の今の認識である。

(ここで、死後はある、と知ることではなく、”信じる”ことにするのが”宗教”であろうというのが我が設定。そこでの“信”とは、結局わからないことは心のそこではわかってはいるが、そこはもう盲目的にわかったことにしてしまえ!というなんだかヤケクソ要素があると感じる。なので池田さんは、知ることと信じること、というテーマを小林秀雄の思想とも並走して考えられたのだろう。そしてそれは池田さんの喝、私が座右の銘ともしている”悩むな!考えろ!!”という思想とも繋がっていよう)

日本で、イマイチ宗教に人気が無いのは、このあたりを皆さん深いところで感じているからではないだろうか。一方印象だが西欧社会では日々の生活に密着しすぎて、儀礼としての宗教が強力なのだろう。宗教ながら、生きる時のルールみたいなもの。これを捨てることは難しい。

藤田正勝『日本哲学入門』 の以下紹介文の冒頭で、その”共通”の感覚が、アリストテレスにより「共通感覚(コイネ・アイステーシス)」として定義されていると知った。
 
深く理解できてはいないが、西田幾多郎、西谷啓二とくれば、こちらも私の大好物、禅やドイツ神秘思想、グノーシスと言った思想にも根底では繋がりうるメンツだと思っている。

私たちは視覚は視覚、聴覚は聴覚、嗅覚は嗅覚というように、それぞれ独立した感覚であると考えるが、古代ギリシアのアリストテレスはそれらの基層に、共通の感覚能力、つまり「共通感覚(コイネ・アイステーシス)」があると考えた。それによって私たちは砂糖の「白さ」と「甘さ」とを別の感覚として感じ分けることができるし、感覚作用そのものを感じとることもできると考えたのである。
このアリストテレスの「共通感覚」には、戦前にも中井正一や西田幾多郎、西谷啓治らが関心を寄せていたが、戦後とくにそれに注目した人に中村雄二郎がいる。

この身体は誰のものなのか…日本の哲学者が苦悩した「西洋と東洋の本質的な違い」(藤田正勝) | 現代新書 | 講談社(1/3) (gendai.media)

ここで言われる「共通感覚」はちょっと私がイメージした全生物に共通の意識や経験の集積、というものとは違うのかもしれないが。

なかなか面白そうなので、引き続き確認していこうと思っている。

(我田引水、発動!(´;ω;`))

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。