日記12月25日。 #日記
靴下3枚重ねを励行している。
いやあダサい。わかっている。だがまあ、家の中では。
暖房を付けると頭がぼんやりして、すぐに眠くなる。というか寝ている。あっというまの出来事だ。
本も読めない。テレビも見られない。寝るだけ。
ということで、冬の間は着ぶくれ作戦である。頭が寒くても、家の中ではそれほど辛くはない。
最近出た、ユニクロの超極暖タートルLサイズを導入した。私はどちらかというと服はジャストサイズがベスト、と思っているが、それは外出着でのこと。家ではぶかぶかでも、いい。
もちろん1枚ではない。超極暖は2枚重ねだ。それだけではない。2枚の超極暖の間には無印良品のニットタートルを挟んでいる。
これだけで3枚。そこにフリースと薄手のスウェットを着る。これで5枚。
仕上げは外出用のボアの上着を室内着に降格させた。計6枚。
まあ、自分ながら着込みすぎで笑ってしまう。このまま外出して歩いたら、暑すぎて気持ちが悪くなった。
さて、前の日記で、映画フリークスが30年封印された理由を考えた、と書いた。
たぶんこういうことだと思っている(以下、映画の内容に言及しますので、内容をお知りになりたくない方はご注意ください。また内容もこのクリスマス当日に書くにしては厳しいもの(いわばふさわしくはないかもしれないもの)となってしまいますので、合わせ閲覧ご注意ください)。
劇中では、移動サーカスで、いわゆる健常者と生来の不具者(フリークス)が混じって技を見せている。健常者でヘラクレスという男、クレオパトラという女性がいる。もとより役名だが、肉体美や美貌を見せる役がらだ。つまりは一般人の中でも外貌に秀でた者たちだ。
クレオパトラが半分遊びでミゼットの男を気がある風でからかう。だが男は本気になり、その後この男が多額の遺産を相続していることを知ったクレオパトラは、実際に結婚したうえで男を毒殺しようとするのだ。
だが結婚披露宴で酒に酔ったクレオパトラと、実際の情夫であるヘラクレスは、フリークスたちが宴でクレオパトラをフリークスの仲間に入れる、といったことに対し、お前らといっしょにするな、と言い放つ(ちょっとストーリー展開上無理やり、という気もするが)。そして女は宴でミゼットに毒を盛る。
これは、同じサーカスで働く者同士でも、健常者とフリークスの2つの世界があり、完全に分かれている、ということを気づかせる。わざわざ、仲間に入れる、ということを宴で、華々しくやるほどの垣根があるのだ。だが、その想い(蔑まれるものとしてのフリークスが、その一員と結婚することでその世界に含まれる健常者が、よもや断ることはないと半ば強引に不安と恐れを押さえつけて提案している)は、手ひどく断られる。フリークスたちの、複雑な思いが伝わる。本作品で出演している”フリークス”は、本当にサーカス等で暮らし、”見せ物”として働く者たちだ。演技ではない。実際に日々その姿をさらしてきた者たちなのだ。
ミゼットは一命をとりとめるが、体調は悪化している。クレオパトラは引き続き毒殺を試みるが、ミゼットやフリークスたちは既にクレオパトラやヘラクレスのたくらみを見抜いている。やはり分かり合えないのだ。
ここからの展開が、30年間の再公開禁止、を招いた表面的な理由だろう。もちろん公開前に元のストーリーの、いわゆる”堪らない”部分はカットされている。そのうえで公開されたのだ。だから全編で1時間ちょっと、という短尺なのだ。
それでも、公開後、再公開の禁止となった。カットした部分だけでは、その衝撃をすべて隠すことができなかったのだ。
公開前にカットされた部分。本編ではヘラクロスは大雨のなかナイフで刺され、巡業馬車の車輪の間に身を引きづって逃げてゆくところをフリークスたちに追いかけられるシーンで終わっている。
クレオパトラに関しては、冒頭で現在はサーカスの見世物となっていることが示される。その姿は映画の観客には示されないが、見世物小屋に、見世物を見に来た”紳士淑女”たちが、その姿を柵越しに見て、悲鳴をあげとびのき、嫌悪の念を示す姿が描かれる。
いったい、彼女はどうなったのか。冒頭からずっと、そのことを観客は気にしながらストーリーを追うことになる。
実は(WEBでの情報が正しいとすると、そして私としては正しいと思うのだが)ヘラクレスは去勢されたうえで惨殺される。クレオパトラは(たぶん)舌を抜かれ、手をアヒルのように加工され、下半身は(少なくとも足は)毀損される。顔も奇妙に変形している。
カット部分はその状況が、描かれていたというのだ。
これは、重たい。
いわゆる、残虐もの、というものが頭に浮かぶが、通常ではなんとなくたくさんの人々が集団で殺される。ここで或る意味、衝撃が抑えられるのだ。ここまで、個人への個別の行為が、描かれることは少ない。
カットされたという去勢、という行為。これは見るもの、特に男性であれば自らが画面にいるような恐れと痛みを伴うだろう。思いだすところでは、”ファイト・クラブ”で主人公が去勢されそうになる場面だ。怖かった。
そしてクレオパトラへの行為。これも推測だが後世の創作に影響を与えているのではないか。私が思いつくのは永井豪のバイオレンス・ジャック。スラム・キングに人間犬にされる美男美女の図は、一見以来脳裏に焼き付いて離れない。闇金ウシジマくんも、影響を受けている気がする(間接的かもだが)。
だが、それらの影響の有無はさておいても、なぜに”ホラー”と銘打たれ、残虐画面がむしろ必要なこの映画で、その場面がカットされなければならなかったのだろうか。
すこし考えると、じわじわわかってくる。はじめから、感じてはいたのだろう。だが、言語化は難しく、”イヤな感じ”という形であった。
いまの私の、言語化はこれだ。
嫌な気持ちの理由とはつまり、殺され、不具にされ復讐のため見世物小屋に売られる男女は、フリークスをクレオパトラやヘラクレスのように、別の世界の関係ないものとして心の底で差別している、僕たち私たちのことなのだと感じるがため。そしてまた、その(将来の自分たちの姿でもあるアヒル女を)他人事として無邪気に忌諱する善男善女もまた、気楽で残酷な映画の視聴者である、私そのものである、とじわりと感じてくるから、だろう。
つまり、この映画は観客にこういうのだ。
次は、お前だ。
池田晶子さんのお好きなことに、墓場のピルグリムがあった。墓石の墓碑銘をごらんになるなかで、印象的なことばを書かれていた。
墓場に無邪気に参拝する”生きた”人々に、その墓碑銘は告げる。
次は、お前だ。
(避けたいことを、無意識にかんがえないようにする癖が、私にはあるようです。みなさんはどうでしょうか。まあ、無意識などと言ってはいますが、メチャクチャ意識している、ということかもしれませんが)
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。