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9月4日 音声入力と口述筆記など、似ているが心の持ち方で結果が微妙に変容しがちなものやことなど。

今朝の体重はよく覚えていないのだが、64.4kg位であったか。体脂肪は11,4%だったような。昨日は普通はスポセンに行く日なのだが、眼医者と歯医者にいったので、なんだか疲れてそのまま帰宅。

さて、勝間和代さんのメルマガなどを見ていると、基本音声入力で作成されている。そして、前に自分でも音声入力でここの日記などを書いて(いやしゃべって)みたりした。

一人で住んでいるのに、なぜかトイレの中であったが、なんとなく周囲を囲まれていると安心感が高まるようだ。長い人間の進化の中で、たぶん祖先はいつも襲われることを心配して、そしてそれが故に生き延びる術を日々研ぎ澄ませてきてもらって、様々な進化を結果的には生んで子孫を変化させて、今私がここにいるわけだから。たぶん廻りが安定した、そしていつも出られる場所であると安心するのだ。風呂場もそうである。3上の馬上、は周りに人がいるのだろうが、電車の中といっしょで一緒にはいるが、非日常であり、離人感もある。このあたり共通するところはあるだろう。

まあ、それは置いておいて、先般山田稔さんが数歳年上の京大フランス語の先輩教授(だろうたぶん)である多田道太郎氏のことを書いた文章を読んだ。

山田氏の文章が、単なる随筆や回顧談ではない、ということがしみじみわかる文章であった(「転々多田道太郎」、”マビヨン通りの店”より)。

見た目は回顧談のように見える。だが、「小説」あるいは「私小説」なのである。それはそこに、普通の随想であれば気を使って書かないこと(自身の心の中の本音)がぞろりと急に出てくるところが一番の理由だろう、と勝手に思っている。

下手をすれば「悪口」となるかもしれないが、まさに心のなかで思っている本音。そしてそれをもし本人が読めば気を悪くするかもしれないのだが、敢えてそれを「小説」として提出する。それは別に「小説だから創作だ」と逃げるためでは全くない。いわば「本音を言ってもいい、なぜならそれは自身にとってぎりぎりのものだから、責任を持って表出するし、その全責任は負う」という矜持と共に示されているものだからだ。

生ぬるい小説が増えた、ということで、1990年以降の小説が面白くなくなられたのだろうと思う。私は継続して小説を読んできていないし、特に私小説というものはほとんど読んでいない(どちらかというとSFやファンタジーなど「お話」(いい意味で)色の強いものを好んだ)のでなぜに1990年代に、山田氏が30年以上続けられた「日本小説を読む会」を終了されたのかはわからない。だが、こうした友人関係(多田氏については友人どころではない、「先輩」であったのだ!)の本音のところを、心が感じるとおりに忌憚なく示されるものこそ、真の「私小説」だ、と言われれば、私もそんな気がしてくるわけである。

正直に書いたものが皆さんに好まれる、という箇所がある。別の文で、当時京大を定年退官後、女子大学勤務であった多田氏が、その教え子であると思われる女子生徒たちと会食している場に遭遇し、多田氏に「いっしょに飲もう、この子らは帰したらええ」と言われ、何度も固辞して最後は多田氏が、「水臭いな」と低い声で言って踵を返して戻る、といった箇所を読むなどして、大学院生と若手研究者として出会って同じ大学に勤めていたという何十年もの関係があったにもかかわらず、「そのころに多田氏の心は我々から離れていた。」と(それがそのような対応をした理由かは不明ながら)ずばり本音が書かれた箇所などをどこかひやひやした気分で読んだりしていると、

これは私小説やなあ。。。

などと思うわけである。

そしてそのような文書は読んでいて”癖になる”。どんどんどんどん、他にも読みたくなってくる。

世代差もあいまって、まったく存じ上げない方々の話がほとんどだが、書かれている人がどんな人なのか、俄然興味が湧いてくる。同じ京大仏文科教授で、山田氏よりは少し年上であろう私にとって半ば伝説の魔人のような生田耕作氏についても、山田氏にとっては学校の同僚以上でも以下でもない(それが事実なのだが)というのが感じられて、なんというかすごいなあ、などと思うわけである(生田耕作氏が京大退職前後で作った”奢灞都館”(ずっと”さばとかん”だと思ってましたが正式には”さばとやかた”のようですね)の本が好きなのです)。

タイトル回収だが、その「転々多田道太郎」の中に、晩年の著書が「口述筆記」であったということが書かれていたことで、勝間さんの音声入力のことを想起したわけだ。

昔の口述筆記は(今もだろうが)、誰かが相手の語るところを筆記するわけである。であれば目の前か横に人がいるわけで、どこかで口述者は筆記者に語り掛けるような箇所が出てくる可能性もあるのである。普通はそのあたりは編集されるような気もするが、口述者がその箇所を気に入るなどして残すようなことがありうるのだ。

そうすると、これは口述筆記だな、ということがわかりやすくなるのである。

別にそれがどうこういうわけではない。だが音声入力だと基本自分ひとりの作業なので、誰かに語り掛ける、ということはないのだ。

ということで、2者は似て非なるものである、ということを考えた次第である。
(ただそれだけ、なんですけどね。。)




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豆象屋
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