10月21日 天邪鬼。自身と魂を一致させたい=意味不明。
今朝の体重は63.7kg、体脂肪10.2%程度だったような気がする。
忘れてしまったようだ。
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芸術や文化、といったものに、学校教育で向き合う機会がなかった。
なんとなくだが、私が育った環境では、芸術や文化なんてものは所詮遊びである、あるいは生きるためには余剰のようなものだ、というメッセージをいつも感じていた気がする。
なので、”隠れてこそこそ楽しむものが文化や芸術である”という刷り込みがなされたようだ。
まあ、残念なことだ、と今まで思ってはいたが、そういう”こそこそ”こそが自由に好きなものを好きなように楽しもう、という今の気持ちに繋がっていることも否めないだろう。
現代芸術、というと、今はどちらかというとアニメ絵を世界で”これすごい!”と言わせる、というような方向である気がする。
もちろんアニメ好きなのですごいことだな、とは思うのだが、実は虐げられて良さを皆さんみとめていない、という状況下で”しかしこれが好き!”という気概で接していたほうが、なにやらガッツが湧いて愉しかったような気が個人的にはするのだ。
ルサンチマンにより生まれたものがメジャーになると途端につまらなくなる。
天邪鬼な感覚だろうが、いわゆる”判官贔屓”の感覚に近いだろう。
みんなが虐げるものが気の毒だ。ひとりで応援するぞ。
違いがわかる自分がすばらしい。
まあ、そんな結構単純な感覚であるのかもしれない。
そんなことを思ったのは、いわゆるクリエーターが集う・学ぶ場では、どのような感覚でいるのかな、と思ったせいだ。
その場では私の中では”隠すべきと認識している所業”が、正業となり真面目に取り組むべきものとなっているだろう。当然美や文化に接することは、必須であり、その接し方の精度や熱意やあるいは技のようなものも必要であろう。
最近Xで気になっている中島智さんのツイート(Xになってからもうツイートと言ってはいけないんですよね、たぶん)を見ていたら、以下のようなものがあった。
鑑賞教育での禁句は「自由に観てください」で、人はほっとけば自己投影でものを視るので、わざわざ言わなくてもよいことである。しかし自己投影をこえて、他者とどう向き合っていくのか、共同制作していくのかというのは、経験者なら教唆することができる。作品はあくまで他者としてそこに咲いている。
確かに、鑑賞していてその前に「自由に観てください」ともし言われたら、なにか押しつけがましさや誘導を感じるだろう。”いや、そんなんいわれんでもそうするで”みたいな。
その反発が起きる理由がひっかかっていたが、それがこのツイート(もうそういいますね)でなにか解消したような気がしたのだ。
美や文化もそう。自然に、自分の魂で対象に対峙せよ。
ただただそういうことなのではないかと思う。
真空空間に浮かぶ私と、同じく浮かぶ対象物。
それをお互いがお互いのように、見ている状況。
それが鑑賞、というもののような気がする。
で、この”魂”という姿勢というか、立ち位置のようなもの、
これを教えていただいたのは池田晶子さんである。
そのご著書を読むにつけ、みずから自身の魂がなんだか浮き彫られて、純化していくような感覚を得た。
その感覚が素晴らしくて、それで池田晶子さんを読んできた、という気がする。
”自分”と”魂”、はともするとぼやけて微妙に分離しがち。
生きるのに必要なのは、愛と勇気とサムマネー、であるとしても、普通はその”サムマネー”が難しい。
たまたま”サムマネー”を得られるまで頑張らねば、という思いがわたしの今までであった。
だが、いま、ここ。
今しかなくて、今は永遠だ。
そんな感覚を池田さんのご著書を読んで感じてから、だらけて幼くていいわけだらけの”自分”を、できるだけ”魂”と一致させたいものだ、という気がしている。
これはどちらかというと霊的というより精神的姿勢の話である。
このあたりのむつかしさも、池田さんは”魂”を語るときに避けられないものだ、とおっしゃていたように思っている。
(なにをいいたいのか、よくわからなくなって来ましたが。。)