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9月7日 読書とそのあと。
彼の背後に、
彼の前方に、
ひとつの宇宙がある。
そして彼が、
一番左の最後の本棚にある最後の本を閉じながら、
「さて、それで?」とつぶやく日は近づいているのである。
サルトル 「嘔吐」
昨日書いた近藤康太郎氏の「百冊で耕す」の冒頭に引用されていた名句である。
さすがプロの読み手、引用される文章もまさに珠玉。
本を読むことは、本を読むことであるが、ただそれだけではない。
どちらかというと、精神感応に近いものだ。
文字があるおかげで、相当深いところ、時には作者自身が意識していないところまで、読者が感応してしまうのだ。もちろん誤読もある。それも含めて”精神感応”。
テレパシーと同義であるかもしれない。
凄いことである。
だが、読み切れないこともある。
作者が自身の全人生を込めて、全身全霊で著わした文章だ。
それを受けとる方が、受けきれない、受け入れる準備が整っていない時もあろう。
外国語の翻訳であったり、そもそも他国の文化、考え方、習慣の違いもあるだろう。
なので、読んでも意味がわからん、となるかもしれない。
哲学系や、そもそも外国語、あるいは古文。
個人的には数学系は心配だ。
だがそこであきらめず、例えば”いつか読む本”と定めて、”積読”しておく。いや、積まなくてもいい、本棚に並べっぱなし。
積読は”横にしておいておく””仮置き”というイメージがある。
そして冒頭のサルトルがいうように、
読み切ったあとの”わが魂”が自らの言葉を語りだす時、
その時が楽しみでしかたが無くなってくる。
これこそが読書とそのあとの醍醐味、というべきであろう。
(ウーン、ちょっとわくわくして来ました)
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