6月21日 往きて還ることの困難さ。ゆくことはできるが帰れない。
今朝の体重は64.5kG、体脂肪は11.7%であったか。
どうも白米を食べるようになって急に体脂肪率が上がったような。。
体重は下がりつつあるのだが??
まあ白米を食べて認知症予防になればいい。同じものばかりを食べると栄養が偏るので、今週はきのこ2種とカボチャを購入した。肉ばかりではなく、鯖缶も食べている。
閑話休題。
今、井筒俊彦の神秘哲学を読み、この欄で時々引用しているのだが、遅々として進んでいない。一日数行読んでは立ち止まり立ち止まりの様相だ。
だがいつも言っている通り、内容が濃すぎるわけだ。今日はプラトンの「洞窟の比喩」の部分に到達した。
神秘道は、行くのはある程度の人は行けるが、帰ってくることが重要であるも、帰って来たひとはほとんどいない、という知見を得、黄泉の国に行って妻を連れ返そうとする話がそのことを象徴していのでは、という感想を述べた。
例えば浦島太郎の話も類話というべき感触があり、異界に行って帰ってくることの困難さを示している、といえそうだ。
洞窟の比喩、であるが、まだ良く理解できてはいないのだが、これもあるいは精神的に「行って帰る」、つまりは知りたくない、あるいは拒否するまでもなくそういうものだと思っていることを「知り」、その衝撃を受け止め受容し、或は反発してもまあ、自分の中に何とか受け入れることを言っているような気がしている。
肉体あるいは精神が、実際に行って(精神であっても精神界を)帰ってくるというよりは、生の意味のなさを実感し、そこからあるいは絶望をも経てしかし「出発点」あるいは「人生に」帰ってくることを示している、という風なイメージだ。
気づかず生きて死んでいく今までの全人類とこれからうまれるであろう全人類。その中で少数、あるいは数人(例えば四聖と呼ばれる個体あるいは魂、あるいは”個人”)のみが、いわば終着点に行きつつも「雄々しくも」帰還した、というわけだ。
これは象徴的に例えば映画「マトリックス」でも、洞窟の壁面を見続けることがなかった「覚者」としてネオ、という人格を想定しているのではないだろうか。
覚醒しつつ、そのことを「身を賭して」あるいは「身を他の生に」捧げて、もったいなくも帰って来た人だけが信用できる。
池田晶子さんはそのことをおっしゃったのではないだろうか。
「行って帰って来た人だけが信用できる」と。
「行く」ということは「悟る」という言葉と類似であろう。
それはしかし、「小さな悟り」ともいわれることで、その「悟り」の魔界は気を付けよ、ということが言われるようだ。
「悟り」とは終着点ではないのか。そう思っていた私は奇異な感じを受けたものだ。
だが「悟っても」その悟りはまた日常にうずもれてゆくという。そんな悟りは真の、最終的な悟りではない。一見終着点としての悟りに見えるのだが。
そういったことが言われているのだろう。
悟ったら、悟った三昧に、永遠にたゆたっていたい。そういう「邪念」と隣り合わせなのが、こうした「悟り」の弱さなのだろう。「魔禅」という言葉も聞いたことがある。
そのいわば「安楽の中でたゆたうような」悟りであるが、それがとりあえずは本当に「悟り」であるからたちがわるい。そういうことなのだろう。
多分その「悟り」をすべての「衆生」に伝えようとし、その種子を後世に残すこと。
それこそが「帰って来る」ということの意味ではないか、と今は考えている。
(洞窟の比喩はもう少し読み込んでみます)