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10月13日 そうか、擬態だったのか~。「発達障害者は〈擬態〉する」を読んで、自らの今までの所作が擬態であったことに初めて気づいたこと。

アマプラでツインピークスを見だした。

実はきちんと見たことがないのだ。1990年の作品かあ。

そして今朝の体重は63.7kg、体脂肪12.1%、筋肉量53.5kg。
昨晩は62.8kg、体脂肪8.9%。

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横道誠さんの本、「発達障害者は〈擬態〉するー抑圧と生存戦略のカモフラージュ」を読みだした。

発達障害者は〈擬態〉する――抑圧と生存戦略のカモフラージュ
発達障害者は〈擬態〉する――抑圧と生存戦略のカモフラージュ
作者:横道 誠
明石書店
Amazon
そして気づいた。

そうか、私が今までの人生で生存戦略として採用してきたことは、ここでいう〈擬態〉だったんだな、と。

私はいわゆる診断を受けたことがないし、そもそもそういう時代の生まれではないのだが、
私が診断を受けたなら、ADHDやASD要素をまだらに持っている、という評価になるのだろう。

この本では実際に生存戦略として〈擬態〉を採用せざるをえなくなっている人たちへのインタビューが載っている。著者の横道さんもそういう傾向をおもちの様だ。

私に思い当たることが数多くある。

・さかあがりができない(今も)
・泳げない(息継ぎなしの筋力だけの50mがやっと)
・ボール競技が全くだめ
・算数力が根本的に欠如(慣れと計算である程度乗り切ったが、概念にまったくついていけない(頭が沸騰しそうになる)。そもそも数字が嫌い)
・勉強は国語力で適当に乗り切った
・本がすき(人と遊ぶより本。本は全般でマンガやムックも含む)
・完全なるオタク気質
・動物全般が大好き(ヒトより動物にシンパシー)
・左右はわかるが、東西南北は生まれて一度も気にしたことがない
・熱しやすく冷めやすい
・蒐集癖
・物忘れ
・片付けができない
・宿題・提出・テストはぎりぎりまで取り掛かれない

人の発達は勿論ひとそれぞれでまだらがあるわけだが、上記のような傾向は現在いわゆる「発達障害」(さいきんは”忖度”で”害”の字は使用を避けられているが、偽善を感じるのと、本書でも当事者として使用されているので表記はそのままとする)の皆さんが多かれすくなかれ抱えているものだという。

一方で、今何とかかんとか生きていられるのは、まずは両親のおかげであろう。
「この子はいじめられそうやから、男子校にいれとこ」

という判断をしてくれて、本人にもそういって、本人もそう思っていて、ということで、中高一貫校に行くことができたことが大きい。

あと、運動面では、バランスはそれほど悪くないようで、走ることはまあまあ早かった。これは父親が運動神経良かったというので、そのおかげであろう(足が太いということもある)。
力もまあまあで、そして幼少期(幼稚園入園前)に祖父母宅で毎日相撲中継を見ていたので、組み合って闘う、という動きが早い段階で脳内にインプットされたのが良かったのだろう。
いわゆる「格闘」にカテゴライズされる相撲で、基本小学校では負けなかった(まあ押し出しですが→技はない)のは、自力ではなく結果的な無意識の「生存戦略」となったといえるだろう。
これは「口でのいじめ」には全く弱かったが、具体的なバトルを仕掛けられた場合、基本はねのけつつ相手にダメージを与えてきたので助かった、という面で発揮された。

(事例1)小学校の集団登校で、田んぼに落とされそうになったが、落とそうとした手をつかんで相手を落としてこちらは無事(相撲での土俵際での攻防を無意識に利用)

(事例2)小学校1年の初めての集団登校で、つっかかってきた相手の手をつかみ、ハンド版ジャイアントスイングで回転させつつ水たまりに放擲(怖さとパニックから攻撃者をとにかく遠くに投げたい、という心理)
→これは学校から親に報告あった気がするが、親はなにもいわず

まあ、事例2では、基本自衛しかしないしできないことを親は知っていたのだろう。

件の祖父(母方)は、潔癖症で、アルコールで手を洗いまくっていたそうなので、これも一種の発達問題があったのだろうと思っている。

一般人とカテゴライズされているひとが、いわゆる「障害」に対して、根本的にとことん冷淡である、ということはことあるごとに感じてきた。
この心理が「いじめ」の本質の一部かもしれない。

ひとは人の不幸を喜んでみる傾向があるが、一方で死や病気の問題や情報をある意味忌み嫌うのは、そのことで死や病気が自らの近くにある、ということを感じることを本能的に避けているからという。

「いじめ」も死や病気と同様の「社会・関係性からの迫害」である。それをみると関係がないという立場を自然と取って、自らに降りかかることをさける本能がたぶんあるのだ。

そういうことを感じていたので、子供時代がおわったあと、「社会で生きる」ためにはここでいう「擬態」が必要である、という生存戦略を、小学校時代から無意識に取ってきた。

以下の例がある。

・小学校5年?くらいのとき、下駄箱でかがんで靴を履いていると知らない生徒から「でっちり」ということを言われた。
 知らない生徒から言われるということがまずは恐怖だ。それは世間一般の評価のことだから。
でっちり、という言葉は一瞬わからず、「てっちり(ふぐ料理)」を思い出したが、そうではなく、「身体の割に臀部がデカい」「男なのに臀部がデカい」というあざけりの言葉であると認識した。

→これはいかん、と腰骨がそもそもデカいので臀部縮小は無理だと認識、それからは腕立て伏せを1日100回やるようにした(まあ、中学以降ですが)。
尻は無理なので、少なくとも胸囲を100cm以上にする戦略。ヒップが100cm近くあったので。。
→「でっちり」への対策擬態。

・コミュニケーション擬態。
これはいわゆる「感情営業」に近いだろう。飲み会で自分の本性(らしき風情で)を全開で開示する、という生存戦略だ。飲みまくって(まあ、酩酊するのでこちらもめちゃくちゃしゃべる)、歌いまくって、踊りまくって、相手の警戒心を解こうとする。
これを長らくやってきた。これを1回やると、こちらも気楽になって相手とのコミュニケーションをトライしやすくなる。相手とともに、自身の気持ちへの、自身への「擬態」とも言えるだろう。
だが、身体は大変疲れる。。

・外見擬態。
これは上記の腕立て伏せと近いかもしれないが、私の育った地区は神戸でもあまり柄がよくない部分を通る(新開地とか)ので、通学時に他校生などとのトラブルも心配だ。なにしろ往復4時間通学だったので(DOOR TO DOOR)。
表情で相手につけいられないように、日々緊張していた。

・運動すこしはできますよ擬態。
完全なる擬態だが、格闘系はすきだったが、一番やりたかったレスリングは部が中高大となかったので、マイナーなフェンシングを選択。特に強くなかったが、すこしは格闘要素があり、嫌いではなかった。
そして就活の時に、「運動部出身です」と連呼した。

・学部擬態。
一番学びたい・入りたい文学部は、就職口がそれでもありそうな学校(1校)以外は受験しないことを自らに課した。
落ちたら「お前の人生ではそういう縁がなかった」と自ら断念して、好きでもない就職にすこしでも有利そうな学部に行くことにした(高2のころ?)。
結果、法学部に入った。まったく勉強しなかったがなんとか卒業できた。

社会人になってからも、人間的にすばらしい指導員に出会うことができたのが大きかった。飲む打つ(買うはなし)の人だったがとにかく人としていい人だった。

そのひとと出会わなかったら、会社続いていたかどうか。。

なんとかかんとか、生きるための金をいままで稼いでくることができた。
大学では好きなことは学べなかったが、今では版画工房へ行くなどして、いまさらながら好きなことに取り組めてきつつある。

人間だれしも思ったとおりにはゆかない。

これからも微調整してあがいていこうと思っている。

(擬態、とは本質的ではないことを無理に身にまとうことですね。ですから”擬”の文字が入る。そのことで基本ストレスがかかっている点が、ある意味大きな問題なのでしょう)







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