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9月11日 理性の向う側。
井筒俊彦、意味の深みへから。
スーフィーであるアイヌ・ル・コザート・ハマダーニーの考え方が示されている。
この人は1098年生まれのイラン人で、33歳で故郷ハマダーンの刑場で過酷な拷問の末殺害された、という。
存在的世界に存在しているもの。存在していると思われている万物は、本当は徹頭徹尾無なのである。この次元で本当に存在しているのは神一人だけ。他の何物も実は存在していない。しかも「理性の向う側」は無時間的次元であります。唯一の存在者である神が、それ自体は存在ではない、つまりそれ自体では非存在、あるいは無であるようなものに向かって立っている。
神と万物とのこのいわば偏頗な無時間的関係が「創造」という語のこの次元での意味だとハマダーニーは言うのです。
ここで示される「神」の立場は、徹底的に研ぎ澄まされている。神だけがあり、ほかは「無」である、とする。そこではもちろん時間はない。そしてそのなにもない無のなかに立つ唯一の神からのみ、「創造」が発生する。
こうした研ぎ澄まされた、いいかえれば「極端」にも見える思想が、どうしても先鋭的とみなされ、どこの世界にあっても、一般とは相いれないとされて、こと古い時代の宗教の中では結局は異端となり拷問されて刑死、ということになるのだろう。
命がけで、しかし本人にとっては真理以外のなにものではないことを表現すること。
決して有名で多くの人に知られているわけではないのだろうが、こうして日本の碩学の書物によって開陳されるのは、やはりこの魂からの言葉に触れてその思想を残さざるを得ない想いを持つ人が周りにいたのであろう。
そうでなければ「罪人」の思想が今に伝わるわけがないではないか。
これは昨日書いた、ソクラテスの話とも共通する。いわばいいがかりとして「青年を惑わす」という今聞くと政治的、あるいは面倒なものへのいいがかりのようなことで死刑となる。
思想犯としての死刑、行動ではなく言葉での死刑、というものは、今の日本には存在しない。
そのことのありがたさもまた、考えることになる。
(本当にありがたいことです。。)
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