日記11月23日。 #日記

文系と理系について。

私はど文系である、と言って(誰に?)言って言い続けているわけだが、これは男子生徒の場合残念ながらそもそも男子が得意であるべき算数ができませんがすみません、という意味に(個人的には)なっている。

幼少期の刷り込みとしては、現在の日本という国に於いて、男子が成年後会社員として(ほかの職業選択は??)安寧に暮らすにはどうもメーカーで理系社員たることが有利だ、というものがあった。

幼少時の自己評価としては、とにかく自分はこのあたりまま放っておくと”自分で稼いで食べて行ける大人”になれないだろう、というものであった。実際に言うことはなかったが、将来の夢は、好きな翻訳本で見つけた領地収入で暮らす英国のディレッタントであったのだから。とてもまともに働けるとは思えない。まともな夢とも、思えない(どうしようもなく思ってはいましたが)。

小学校時からどうやら文系(そういうものがあるとは知らずでしたが、どうも計算は楽しくない)であったが、中学入試で絶望の算数力に直面するまでは、小学校内では別に計算はできていた。

父親が理系メーカー勤務であったことに加え、本好きで文芸春秋(私は今でもほとんど読まない)などを毎月読んでいたので、理系であることと本を読むことはあたりまえで、本好きだから理系はだめ、ということは残念ながら選べなかった。

記憶力もなく、地理も壊滅的にできない。今にして思えば、記憶力の問題というよりとことん地理に興味がない(これは今も。住んでいる地域の通りの名前は何十年経ってもまったくわからない)ということが理由であったろう。

つまりは、興味の問題なのだ。癖、魂の傾向、といってもいいかもしれない。生まれつき、というものは確かにある。

人生で、日々過ごす中で、物事に対応するときの好き嫌いがある。あいまいにしたい人=文系、明確に把握し、判断したい人=理系、と思っている。もちろんハイブリッド型で双方に長ける、という御仁もいるだろう。うらやましい限りである(本当はそう思っていないが)。

文系、理系の区別を無くそう、とか、文系科目は生産性がない、という(主に理系の方からの=勝手な想像)意見を聞くたびに、勘弁してください、というなさけない思いになる。いや、もう会社員なのでそれほど影響はないのかもしれないが。いまだ大学で単位が取れなくて飛び起きる、という夢をよく見る身としては(実際は単位は他学部履修(笑)で特段問題なかったのですが)。

高校1年の時に、文系理系を選択せよ、といわれ、内心これはどうかんがえても文系だなあ、と思いながら、理系クラスを選択した。これは幼少時の刷り込みを生んだ、勝手に子供が思っている”仕事は理系”という思いこみから、”まあ無理かもしれないが一応は理系でトライするか”ということであった。

一学期の物理で、全力記入で欠点を取ったとき、”ああ、これで客観的にもう理系は無理、と家庭内でわかるわな”という安堵があったことも鮮明に覚えている。

以後文系一直線のまっしぐら、である。

だが、冷静に考えると、文系理系の区別をなくそう、というのは、区別後には系統の違う科目の学びがなくなる、あるいは初歩的段階で終了することがもったいない、という部分もあるのだろう。わかる、わかるのだが、学びが真の学びになりにくく、入試に直結する現実を見れば、それもあわせて改革が必要だ、ということになるだろう。

いまにして思う。学びは、楽しい。心から学びたい事柄を、高校時代までに見つけ、それを追求したいものだ、と。

だが、もう一つ、思っている。学びとは、ともすれば他人の成果をベースに自らの成果を求めるものでもある(すくなくとも、研究、といわれる世界は)。だが、たとえば創作。自らより自然ににじみでるものを形にする。

そのような行為もまた、大変に楽しいものだと。

(創作する、という行為には、ときめきます)




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