1.4 ものを書くひと。村上春樹と井筒俊彦を読んで思う。
今年、と書きそうになりこの日記上ではすでに来年であることを想いだす。
そう、年末年始は日記が書けそうもない(PCが家にない)ので、年末書き溜めようとしているわけだが、実際は今日は12月28日、最終出社日である。
10月に会社を移り、3か月が経過した。そもそも神戸生まれで、もう神戸以外で過ごした時間が長いのに、神戸以外ではやはりどこかでアウェイな感じがある。
これはあまりネガティブな意味ではなく、いい意味でボヘミアンというか、石の上でも3年というか、住めば都、ということをどこの地でも感じている。
ここ東京のいいところは圧倒的な文化度だ。個人的に銅版画を制作しているのだが、会社帰りになんなら毎日でも画廊や展示に行けてしまう。
そして自身の嗜好にあった、というかニッチな展示がそれこそ目白押し、であるのだ。
これは豪華本のところでコーベブックスで豪華本を制作販売されていた渡辺一考さんがおっしゃっていたとおり、豪華本の購買数がそのまま文化の厚さ(つまりは文化を好む皆さんの人数)を表していると思う。
東京だけで、大阪京都、その他地方全部を合わせた分の3倍くらいの層があるだろう。なんというか、それはそうしたことが好きな皆さんが上京して働いて、住み着く、ということも理由の一つであるように思う。
例えば出版社。これはもう東京集中そのものだろう。神保町を歩けば多くの出版社ビルを見かける。集英社、講談社、白泉社。大阪ではたぶん出版自体が大変で、最近個人的に凝っている「編集工房ノア」さんあたりが気を吐いているが、なかなかほかはないのではないか。
厚ければいい、というわけではないが、地方から若い女性がどんどん東京に流入しているという。直観的にも地方ではまだまだ女性蔑視がきつそうだし、会社組織が大きければコンプライアンス投書の仕組みがあるだろうが、そもそもオーナー企業で社長がセクハラすればもうどうにもならない。会社を辞めるしかない。
とりあえず働くのなら、仕事がなければ(あってもセクハラ社長なら)東京にとりあえず、となってしまうだろう。
そうなると地方のセクハラ・パワハラ風土は温存され、さらに東京一極集中が進むだろう。
そのことで出生率の低下が進むはずで、そのことを解消するためにはとにかく個人的には対応策はまったく思いつかない。
日々の生活で、セクハラ・パワハラはとにかく外部から脅さないとなくならない、と思っている。やると罰せられる。そういう内面思考で抑えることは、いささか残念ではあるのだが、そうした思考回路ができてしまった人をいまからかえることは多くの場合困難である、と感じるためだ。
まだ若い人であれば、パワハラ・セクハラはそもそもよくないよね、という意識を醸成することはできるだろうと思っている。世代、時間、が必要なことなのだろう。
村上春樹雑文集、から。(P.33)
絵や物語を自ら書くことは、「古来から綿々と引き継がれていたとても大切な何か(村上、P,34)」であり、「これからも引き継がれていくはずのもの(村上、同)」の中に参加していく、といいうことなのであろう。
先ほどの世代による意識の変化、という面においては、物語が担うことができる点は実は大変大きいものがあるような気がする。
(いつも村上さんの文章には目を開かされる思いがします)