見出し画像

2月24日 勁さについて。芥川文と平井呈一。

さて、2日間の長時間スタバ生活であった。

朝8時から13時ころまでまず座っている。5時間だ。

では暇なのか、というと全然時間が過ぎてゆく。まあ、本も読んで抜き書きしたりするのだが、だいたいはルーズリーフに抜き書きしたいろいろな本の断面をここnoteやはてなに「日記」と称して転記して若干のコメントを書いたりしていると、あっという間なのだ。

そして携帯(いまはスマホという言い方のほうがメジャーになってきましたね)でインスタ、ツイッター、ポケモンGOなどをやっていると、もう13時か、という感じになる。

その時に注意しているのは、インプットだけにならないようにすること。あと承認欲求(だいぶ取り込まれている感はあるが)の奴隷になりすぎないこと。

私はどうやら文章と視覚でいえば、感覚的には視覚優位である。なので、文章中心のツイッターにはイマイチ馴染んでいない気がする。

だが、感じるのはツイッターのほうが幅広くディープな皆さんがおおいところか。インスタにはリツイートがないので、「私がこの発信者を押しています」ということが深く早く、広がることは無い。

そこの距離感が逆に楽な感じもあり、あと、まずは言葉より画像がうかぶタイプなので、インスタ中心にやってきている。

ツイッター掲載内容は、インスタとほぼ同じ、という感じで、コメント薄め、である。

あとインスタは長文投稿ができる。ツイッターの文字制限が苦手で、最近は連投の方法をようやく覚えたのだが、インスタは基本携帯でやっている(PCではやれていない)のだが、たまに長文になることもある。

まあ、これら4媒体はほとんど同じような感じになってきた。ブログが衰退した、といわれるが、まあ、活動する方の数の違いは感じることがあるが、ブログはほとんど個人のつぶやきでやってきたので、衰退もまた、感じにくい。


平井呈一、という名は、なんとなく翻訳者として見知っている、というだけであったが、その弟子をかの荒俣宏氏が自任されており、

平井氏が自身が師事した永井荷風の筆誅で、当時の文壇から不当な扱いを受けた、ということを、荒俣氏の本で知った。

永井荷風は、洒脱な趣味人、という感触をもっていたのだが、いわゆる小心な部分、嫌な部分のある人、という印象を持ったのが正直なところだ。

だが、戦争という当時の未曾有の雰囲気を知らず、偉そうに荷風を批評する権利は私にはないだろう。むしろそういう場であれば私は荷風がごとく、後世で「いかがなものか」と思われるような行為を取ってしまう側である、とも思っている。

一方でそうした筆誅で生涯にわたり不自由を得たにもかかわらず、特段荷風のことを悪くいった形跡のない平井呈一氏が、なんとも清廉の士、という感じで、こちらには仰ぎ見るような感じであり、その思いを胸に、

たまたまその直前に高円寺の古書会館で入手した平井の代表的な翻訳である「吸血鬼ドラキュラ」の文庫本を胸に(というかリュックに忍ばせ)阿佐ヶ谷の「うさぎや」さんに伺った。

こちら「うさぎや」さんは、呈一の妹の龍さんが始めた店で、呈一がこの店の包装紙のデザインを描いたという。勘違いしていたが、どら焼きのうさぎの絵は龍の娘の2代目店主、妙子さんが描かれたとのこと。兎月最中の包み紙は呈一の筆だという。


上野の店は私の祖父が始めた店で、日本橋はその子供、私の叔父が創業者です。
2019年01月24日 阿佐ヶ谷うさぎや店主 瀬山妙子さんへのインタビュー記事より


包装紙は、西荻窪で開店した時から同じデザインです。もちろん住所の部分は変わりましたけど。図柄は、上野黒門町の「うさぎや」二代目となった叔父・谷口喜作の双子の兄弟で、翻訳家だった叔父・平井呈一が書いてくれたものです。「兎月最中」の包み紙も同様に平井呈一が書いてくれました。今は掛けていませんが、阿佐ヶ谷の「うさぎや」開店時に使っていたのれんは、日本橋の「うさぎや」の叔父が贈ってくれたものです。芥川龍之介さんと仲がよかった画家の小穴隆一さんが書いたものでした。みんな、上野黒門町の二代目である叔父の俳句仲間でした。「どらやき」は、今では個装されていますが、昔は個装されていなかった。今のパッケージは、私が書きました。
2019年01月24日 阿佐ヶ谷うさぎや店主 瀬山妙子さんへのインタビュー記事より


この記事を書くために、上記インタビュー記事を参照していて、ここまで読んだときに私は驚いた。平井訳の文庫とともに、芥川龍之介の妻の文さんへの聞き書きがまとめられた文庫も購入した。芥川龍之介と、片山廣子の交情が気になって、芥川の自死のあとの葬儀に参列した廣子のことに言及したこの本を読んでみたいと思っていたのだ。

平井呈一と芥川龍之介は特に関連しないなあ、などと思っていたのだが、芥川は画家の小穴隆一と大変仲がよかったようで、文も含め3人で散歩した、との記述を読んだ。死んだ芥川の顔も小穴は描いたという。

その小穴が、ここ阿佐ヶ谷の開店時ののれんを描いた、というのだ。

芥川と、平井呈一が、うすくつながった瞬間であった。

考えてみれば、平井の弟子を任じる荒俣さんは、ダンセイニ卿の翻訳で知られるが、当時ダンセニイ、と称し、同い年のこの貴族作家の翻訳で、片山廣子は知られているのだ。

時代を超えて、うすくうすくではあるが、2冊の本が私の認識の中でつながった。

(つながったのは、先ほどですが(笑))


小穴が描いた芥川の死顔 『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』より


「水虎問答之図」
大正9年3月22日付の小穴隆一あて葉書に描かれたもの
芥川龍之介

いいなと思ったら応援しよう!

豆象屋
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。