7月15日 神話とすべてを網羅する「一」について。
自文化の中で行われていることは、みなあたり前だと思ってやっているけれども、別の文化の中で行われていることは全部おかしく思える。よその文化はみんな「野蛮」に見えるわけです。人間の文化は何か一つの説明の原理がないと成り立たないので、その説明の原理が「神話」なのです。私の先生のデュメジルは、「神話をなくした民族は命をなくす」ということを書いていますが、まさにそのとおりと言ってよいのではないでしょうか。
P.13 世界の神話をどう読むか 大林太良+吉田敦彦 青土社1998
クロマニヨン人とネアンデルタール人の頭骨を並べてみると、それぞれの人種の典型的(かどうかは不明だがすくなくともその人種に属した人の)な顔がだいぶ違っているということが推測できる。
なにより目の位置や形が違う。勿論現人類でもいろいろな顔があるので同じような差異がある気もするが、少なくとも骨のレベルでこれほどの差があるという気はしない。
鎖国時の日本人が外国人を見た時の驚きは、今あたり前に外国人を見ている感覚からするとよく理解できないが、まあいわば異星人を見たような驚きと近いものであっただろう。
日本にやってくる外国人は一方で船乗りであったろうから、いろいろな人種が世界にいることは当然わかっている。両者の意識のGAPの大きさのことを想う。
違いとはなんだろうか。
生きているものと生きていないもの、という差異があるように思うのだが、その差異も例えば思想と現実界の差異と比べると大したことがない差だとも思えてくる。
精神も現実も、すべてを含んで「一」と考えることはできるだろう。時や空間や非空間も含んですべて。無、があるというのは変ないいかたであるが、宇宙が有限なものだとするとそれはどんどん「無」の中を膨張している、という風にしか考えられないので(無以外であればそれはそもそも宇宙の一部であるのだから)、よくわからないのだが「無」はある、という風にしか考えられない。
その「無いけれどもある」無も含んで「一」と考えれば、まずはこの世界をすべて網羅することとなるだろう。
神話、とはそのなんというか不安定な理解と把握を、落ち着かせるために発生したものだろう。
まあ、わからないが「そういうことにしておけばなんとなく安心する」。
これである。
人種がちがい、文化が違い、それぞれの神話がいかに表面的に違って見えようとも、この「一」の成り立ちを、まあなんでもいいので説明したことにしておく。
これが神話だとすると、多分世界の神話と宗教は、ほぼ1種類と、考えられるのだろう。
(人間である、生きている、奇跡である、どこになぜ生きているか、というのが根源的な疑問なのでしょうね。。)