8.18 考える未来とは過去の経験からのバリエーションにすぎない。
タイトルの言葉は、”それ”は在る ヘルメス・J・シャンプ著 P.156より引いた。
あなたもわたしも、なんならこの次元もあの次元も宇宙も宇宙以外の部分(膨張しているとして、その膨張する先にある「膨張に必要な空間のような無」も含めて、全てが一である、という思想はとても魅力的である。
そういうことを考えるのは茫洋としてはいるが一面不安でもある。だいそれた?そんなことは考えてもしかたがない??
などと多分エゴがささやき勝ちだ。
そんなことより今生き延びることを考えよ。
そんな命令もエゴからであり、それは多分正しい。
だが正しい、とはなにか?生物として生命をできる限り先延ばしにすべく自らの資質を投入して「世界」で「奮闘」すること。そのように定義できるのかもしれない。
だが、司馬遼太郎の「世に棲む日日」、吉田虎次郎松陰や高杉晋作の生涯とその気運をあらわす書のこのすこし奇妙な題名は多分、
天からあなたという精神がこの「世」にいる期間と機会を与えられたのだが、その精神(達)がどのような日日を過ごしていたのかを記す書である、という意味なのだろう、とやっと全4巻の4巻目を読んでいて気がついた。
世に棲む、ということは、世以外にも棲んでいるいる、ということだ。井筒俊彦と司馬遼太郎が知り合いで会談していることを知った。神秘学の泰斗である井筒の醸し出す思想は、そう、そういう感触ととても親和している。
多分、題名はそういう意味で間違いがない。2名、魂が一つのものでありただ便宜的一時的に分かれて在るのであれば、吉田松陰も、高杉晋作も一個の潜在的深層心理の一つのあらわれに過ぎないのだが、主に「2名」の運命を書いたこの小説に、この題名ほどわかりにくくもふさわしいものはないだろう。
それを「松陰と晋作」などというわかりやすさに堕落していないところがまた、司馬遼太郎がこうして「国民的作家」と称される理由の一つだろう。そのことを知れば陶然とする。そんな題名を付ける作家であるのだから。
(幕末は知れば知るほど今の時代への影響に思いが馳せます。下手をすればあなたも私も今ここにいなかった、という足下に暗渠があるような怖さと共にです)